店員の仕事を客の私がした私はパリピなのか?

【この1週間で、新しいことはあっただろうか】

ひろゆき氏の「1%の努力」という本の中での問いです。

 

 

新しいことがあれば、人生を楽しめているという話なんですが、私は毎日がつまらないと思っていたのに、この問いを聞いて、新しいことは次々に起こっていると気がつきました。

だから、つまらないと思うことないのか、というなぐさめになりました。

反対に言えば、つまらないことが普通だから、小〜さなことにも、自分の好奇心に素直になって新しいことを選んだり、それなりにリア充なのかもしれないと思うことにしました。

この1週間でさまざまな新しいことはあったけど、実はほとんど数年間やらずにいたこと、できずにいたことです。

数年間、新しい一歩が踏み出せずにいたものです。

「できたらいいな」というものを数年間見て見ぬふりして、ある日突然、「あ、今日できそう。今日いけそう。いまだ。」って思う日が来た。

それだけです。

そんな日が来るんだってわかったときは、かなり希望になります。

私にも1歩踏み出せたって。

1つだけ変化できたって。

当たり前のことが当たり前にできた日は、とても嬉しいです。

それほど私は優柔不断で、思いついたら即行動!なんて、そんなフットワーク軽くありません。

とっても腰が重いです。

おばさんになったからじゃなくて、昔からフットワークは重いです。

 


基本的に新しいことは苦手。

TikTokを始められないとか。

同じメニューを注文する。

 


切手を買いに行く。

知らない郵便局まで歩いていって、おもいっきり正面の入り口を通り過ぎて、ATMの入り口だと思って、業者のトラックが出入りする方まで入り口を探しに行く。

なんで、正面の入り口を入り口と思わず、わざわざ通り過ぎるんだろう?

不思議でなりません。

そして、言葉を言い間違えながらなんとか切手を買う。

 


(つまらないというかどっちでも良さそうな言い間違いです。

62円切手10枚を、全て84円分にしたいのですが、20円切手はありますか?と聞きたかった。

 


算数の文章問題みたいになるんですが、

10枚つづりの62円切手を窓口へ持って行きました。

封筒に貼るには84円ぶん必要です。

封筒を出す時、いつも差額の22円が足りなかったので、その都度買いに行くより、62円の切手全部の差額分を買ってしまおうと思いました。

84円分にしたいといえば、差額分を買いたいという意味になるし、

84円切手にしたいと言えば、切手の交換という意味になります。

わたしはどっちとも取れない言い方をしたんですね。)

 

 

 

 


言い間違えというのは、細かな話なのではぶくんですけど、切手を交換したいのか、差額分の切手を買いたいのか、どちらかわからない伝え方をしたんですよね。

窓口の男性も固まった気がしたんですよ。

私、相手を固まらせることが多くて、それがなんか情けなく思います。

伝わるように伝えられなくて、とくにぶっつけ本番で話すとなると特に。

だから、メールやLINEでの文章を好むんですよね。

だから、なかなかこの動画でもフリートークって出せなくて、台本を読めば話せるって感じなんですよね。

最近になって、やっと電話をかけるときには不審電話みたいな電話をかけなくなってきました。

要件をメモしてから電話をかけたり、相手が「はい」と電話を出た直後のセリフをリハーサルしてから電話をかけるようになったからです。

不審電話をかけてたときは、「はい」と出られると黙ってしまったり、「はい」と出られてから話す内容を頭の中で慌てて探す感じで、「あ、あの、あのー、」ってずっと言っちゃう時があって、準備してからかけろよと自分に思うことが多くて、改善を重ねました。

 


新しいことができた話に戻りますが、

市役所で手続きが必要な書類が送られてきたら、すぐに済ませることができました。

それから、マグドナルドで新メニューを頼んで美味しかったのでアタリでした。

ケバブハンバーガーを頼んで、ケバブサルサソースというのかな?

その風味が懐かしくて美味しかったです。

懐かしいというのは、10代の頃まだコロナ禍ではなく、毎年恒例の大きなお祭りに行って、ケバブを食べるのが定番だったからです。

隠キャな私には珍しい思い出です。

そのお祭りの風景を思い出させてくれました。

 


それから、

温かいカフェオレかミルクティーを選びがちな私は、お店で待っているときフリードリンクでカフェオレやミルクティーではなく、急に冷たいコーラを飲みました。

ひどいアレルギー性鼻炎だったので、鼻の炎症にコーラは心地よいクーリング。

喉越しが良くて、心の中でうまい!と思いました。

その日は、フェミニンな格好をしていて、お店の人を席で待っている間、いつも読まないファッション雑誌とか持ってきておしゃれかなと思って読んでみたりして、でも飲み物はコーラっていうアンバランスな私でした。

ファッション雑誌は結局つまらなくて、男性向けの雑誌を読んでいました。

雑誌の表紙に大きく「文章力!」って書いてあるもので、読んでいたら店員が来たので、雑誌を閉じて思い切り文章力!という表紙が視界にチラつくんですが、店員の説明をはいはいと聞いて、退店するとき、少し残っていたコーラを片付けようと紙コップをもったら、「そのままでいいですよ」と言って下さいました。

フェミニンな格好にいつもなら、カフェオレやミルクティーを飲んで、文庫本を開いている私が、今日はフェミニンな格好に、男性雑誌にコーラという組み合わせで、店員ももアンバランスを感じたと思いましたが、コーラが美味しかったです。

 

 

 

氷がいっぱいのハチミツピーチティーを飲む。

甘いのにスッキリしてて美味しい。

頭がキンキンして痛い。

 


女性には伝わる月経カップ

いつも、心の中で思うんですよ。

月経カップってなんだよ、日本酒の月桂冠大吟醸カップ酒かよと、あのガラスの瓶に蓋をされてるお酒を連想してしまいます。

それはさておき、思い切って月経カップを買ってみましたが、私には最初の難しさを乗り越えれば、もはや革命って感じで、ラク!!時間も手間もストレスからも解放されたい私にはもってこいでした。

でもあれ高いんですよ。

5000円くらいかな?正直こんなものが?って思いました。

なんだろう、例えば事務用品を買いに行って、滑り止めの指サックが一つ5000円で売ってたら引くじゃないですか。

ちょっと言い過ぎかも知れないけど、そんな感覚でした。

ピアッサーとかも体内を通るものって高いですよね。

そしたら薬局で3000円以内で売ってて、3000円以内が安く感じるのもこわいんですけど、オーカっていう商品を買いました。

 

 

 

最初にも伝えましたが、

基本的に新しいことは苦手。

TikTokを始めたり。

決まったお店でいつも同じメニューを注文します。

マクドナルドなら、スバビーとファンタグレープが定番です。

私は、新しいこともしているようで、同じことが安全で安心というタイプでもあります。

 


こんな感じで、あなたもこの1週間で新しいこと、あったでしょうか。

ひろゆき氏からの問いにこの1週間で新しいことをしている私は人生を楽しめているんだと初めて知った私はなんだかなぐさめられました。

さらにYouTubeひろゆき氏の話もよく聞いて、本も読んで、わたしはなかなか勉強家だなと自分に感心していました。

 


現在はアドラー心理学の「幸せになる勇気」という本を大真面目に読み続け、休憩時間にはYouTubeをひらいて真面目な顔でしーしーしょうまさんの話をずっと聞いてます。

しーしーしょうまさんって、ひろゆき氏のモノマネをしていますが、ためになる話はせず、ずっとボケながら相談に乗っている方です。

 


やっぱり私の欲求は、学びたいだけではなくて、かなりふざけてる部分もあって、ふざけた話を聞き続けられる自分も私らしさの一つなんですよね。

勉強したりふざけたりして、どちらも私の中では充実感があるものです。

学びとふざけと、どちらも充実させると自分が喜んでる感じがします。

そんな2面性を持っています。

 


新しいことを求めたり、今までと変わらない安心を選ぶこともまた、自分らしくいるためにバランスをとっているのかもしれませんね。

 


そんな新しいことができた嬉しい気持ちと、今までと変わらない安心感を抱いていたけど、たった数日でまた自信を削る出来事が起きます。

 


私は公共の場でまた恥をかくの?

新しい場所が怖くなった。

モスバーガーのカウンターで、私が番号札を持って待っていると、私のジュースがお盆に乗って出てきた。

私がお盆に手を添えると、店員が、

 


「お持ちします」

「お持ちしてください」と言っています。

お待ちください?お持ちください?

そもそも私の隣に店員が2人いる。

私に言ってるのか、店員が店員に言ってるのかわからない状況でした。

注文した時に店員に言われた。

「番号を持ってお待ちください。」

マクドナルドと同じ要領で、カウンターで商品を受け取ると思い込んでいた私は、渡された番号がテーブルに置くような形をしていて持ちづらいことに気がついていた。

ちょうどアルファベットのVを逆さまにした形だった。

手に持つには珍しい形だな、と思ったままそれ以上を察することができなかった。

先客もすでに席に商品がある状態というのもあって、店員が席まで運んできてくれる行くシステムに気がつけなかった。

15年前にモスに行った気はするけど、システムは忘れてしまい、その後はドライブスルーで行く程度でした。

 

 

 

 


モモジンジャーが果肉入りで、すごく美味しかった。

すごく美味しくて来てよかったと思えて、さっきの勘違いというか恥晒しのハラハラドキドキ、自信がすり減る感覚と相まって泣きそうになった。

 


ずっと読みたかった本を持って、読む場所を探して、優柔不断でやっと決めて、ここにきました。

アドラー心理学の本を読んでちょっとうれしくなりながら、また思う。

 


察しにくい私がこの世をうろついて今日も誰かを戸惑わせたり足手まといになってしまうこと。

そんなとき突然泣きそうになります。

「もっと強くなった方がいいよ」

人に言われた言葉を思い出します。

おいしいももジンジャーをストローで吸って、コップ一面の氷がコップの下の方に下がって行くのを見ながらまた気がつく。

氷の中からストローを曲げるシマシマが現れて、このストローに関節部分があったことに今更気がつく。

逆に使ってた。

今更察することが重なって、シュンとする気持ちに追い討ちをかけます。

 


トイレに行きながら、「手をよく洗っていただきますっ!!」という手書きの張り紙に目を奪われながら考えていました。

この、すぐクヨクヨする自分も受け入れ、この察しずらくクヨクヨする自分で歩んでいかないといけない。

これからのことを考えよう、と考えていました。

手をよく洗い、指示の通り本格的な消毒液で手を消毒しました。

すごく細かなキリが広範囲でたくさん出る消毒液でした。

 


トイレを出て、カウンターや店内を見渡してもお盆の返却口がありません。

挙動不審にカウンター付近で店員に話しかけるタイミングを待ち、話しかけました。

「食べたあとはそのままで良いんですか?」と聞くと、「はい、こちらでお下げします」と教えていただきました。

 


わからなければ、声にして、聞こうと思います。

当たり前のことを決意してて、我ながらびっくりする。

当たり前ができていなかったり、察することができれば聞くまでもないという思い込みがあった。

システムを聞かないと分からない自分にちょっとショックだったのかもしれません。

私も老いたんだなと。

 


車での帰り道、白髪の男性が横断歩道の手前に立っていたので、私は停止しました。

男性はいっこうに道を渡りません。

私の車にも気が付かずにずっと前方を見ています。

男性の前方には工事現場や歴史的な建設物があります。

それをじっと見ているだけなんだと思い、わたしは再び発進しました。

 


察しずらい自分を見てるようでした。

横断歩道にいたら渡ると思われるかもしれない、ということに気がつかない。

横断歩道が見えてないのかもしれない。

そもそも渡るつもりはないし。

自分の気になるものが目の前にあって、それを見てる。

ただそれだけで、周りの人の足を止める。

私もそうしているのかな、と思うと、周りの人にごめんと思いました。

 


私は白髪の男性によって車を停めて、なんだ渡らないのかと思ったけど、ごめんと謝られるほどのことではないと思いました。

色んな人と同じ場所を使うのだから、あれ?思ってたことと違う。ということが起きても不思議じゃない。

それをそのまんまの言葉で自分に投げかけたとして自分をゆるしたら図々しい感じがするけど、ごめんねという気持ちを持って、間違えたら直したり、分からないことは聞こうと思いました。

 


そしてさっきも、ある事業所の玄関にいて、その先はカーペットで、職員に「そのままどうぞ」と言われ、靴の前おじゃましてしまいました。

後から靴の姿を見た職員は、「あ、靴は脱いでいただいて。そのままって言ったら、靴のままだと思いますよね」とフォローをしてくれましたが、私は新しい場所に戸惑い、焦り、小さな靴箱や、スリッパラックが目に入っていませんでした。

 


さっき自分のことをリア充かもしれないって言いましたが、リア充って今言いますか?

死語ですか?

 


これ、Yahooで調べたら、

リア充に代わる言葉として、「陽キャ」「パリピ」「ウェイ系」というのだと知りました。

モスバーガーで店員の仕事を客である私がしようとしていて、何気ない毎日に変化を与えて充実している私を陽キャとかパリピとよぶのは、なんというかもはやおこがましいというかただの営業妨害じゃんという気持ちになりました。

だったら、自称リア充と呼ぶのも違う気がします。

 

 

 

このたった1週間の間にも、ここに書ききれないくらい、店員や受付の人を一瞬戸惑わせる私です。

「え?」ってなってる人たちの顔が、私の頭の中でズラーーーと並ぶ瞬間があります。

恥ずかしくて、情けなくて、忘れたいです。

 


それと同時に思います。

私に協力してくれてありがとうございました。

 


これで次はもっとモスバーガーに行きやすくなります。

霊感でマスクの下の鼻栓は見破られるか


季節の変わり目は体調を崩しやすく

アレルギー性鼻炎の方も大変です

ショッピングにカフェで読書

幸せな鼻栓女の話をします

 

アレルギーの原因も症状もさまざまですが、私は喉と鼻が炎症を起こします

今回私は、タバコの副流煙を吸い込んでアレルギー症状をこじらせてしまいました

急用があってタバコを吸ってる人に話しかけに行ってしまったので、次回は気をつけます

 


処方されたお薬を飲んでもしばらく鼻水が出て、家の中でも箱ティッシュとゴミ袋を持って歩かないといけないほどです

 


外を歩くときは、鼻をかみきれないし、あまり鼻を触ってたら不衛生かなと思って、両方の鼻に鼻栓を詰めることにしました

 


鼻栓で空気の流れが止まると鼻がツーンとするような刺激がおさまり、そのうち鼻水も止まってくれます

 


口元に空間ができる形のマスクをすれば、鼻栓を包み隠せると思いました

 


最近出した動画でもお話しましたが、霊感というものを信じはじめました

 


アレルギー性鼻炎で鼻水も辛いけど、喉が破けてるんじゃないかと思うくらい痛いのですが、涼しさを装って歩いてました

 


鼻栓だけは隠したいのに、通り過ぎる何人かの人が私の顔をじっと見ていると、この人には霊感があって私の鼻栓も見透かされてるのではないか?!

とハラハラしました

 


それか髪型や顔や服が変なのかどちらかです

 


両方の鼻に鼻栓をしているので、マスクをしていても話をすれば声で鼻が塞がっているかどうか伝わります

なので、店員に話しかける時には注意が必要です

 


いや、本来は鼻栓をしてようがかまわないと思うんですけどね

この女、両方の鼻に鼻栓をつめてるのではないかと悟られるのも恥ずかしいし、風邪症状があると不安になる人はいるだろうなぁと思うから気をつけたいところです

 


最近、私にしてはめずらしく可愛いパンプスを探してウィンドウショッピングすることが多いです

 


ネットにも気にいるものがない

お店を回っても気にいるものがない

そもそも流行じゃないですし

 


そして探してないときに出会うのです

こんなの探してたーーという靴との出会いです

鼻栓をしてる日に限って

 


私のサイズの靴は箱に入ってたので念のため店員さんに「これ試してみてもいいですか?」と聞こうと思いました

 


あかさたなの、な行とか、ま行は、鼻に空気が入らないと驚くほど発音できません

 


たぶん鼻声よりも鼻栓ありには違和感があると思います

 


仕方ないので「これ試べしてびてもいいですか?」

と一切、鼻腔を使わずに言うことにしました

 


私的には鼻にこもる音がないほうが、発音が下手なのかな?で済むもしれないから、いくぶんマシかもしれないと、何がマシなのかわからない理由で納得しました

 


店員さんは、私の発音を気にしてようが気にしてなかろうが、何もなかったかのように自然体で対応してくれます

 


そして今日も短時間だけ本屋のカフェへ寄りました

いつも飲みたいものを値段と相談で頼みますが今日は違います

 


な行とま行がついていない飲み物を考えながら歩き、カフェについてひろゆき氏の本を手にとってカフェ向かってもまだ考えていました

 


ひろゆき氏の本が見えないように腕に挟んで持ち歩いてたのが嘘のようにカジュアルに持ち歩き、ま行とな行が付かない飲み物を考えながら注文するカウンターまで向かいました

 


カフェ・オ・レ…はいいね

カフェモカ…は、ま行だからだめ

などと考えながら、お店のメニューを見ているとロイヤルミルクティーが目に入り、これなら大丈夫だと注文しました

 


今気がついたけど、ま行入ってるじゃん

どうでもよすぎる自分とのゲームに負けていました

負けにも気付かぬまま、自宅に帰って風呂に入ってご飯を食べて消灯して現在布団に入っている私は幸せ者です

 


バカって幸せそうだよねって誰かに言われてそうで怖いです

 


よく考えたら、カフェのカードの残金が不足していたので、私は店員に「チャージしてもらえますか?」と聞いたり、

お待たせしました、ごゆっくりどうぞと言われて「ありがとうございます」

と答えたり、鼻栓女はすでに惨敗していました

 

 

 

そして本を開いて気が付きます

なんでさっきカフェへ来る前にトイレで新しい鼻栓を詰めちゃったんだろうって

 


カフェでとるわけにもいかず、マスクをとるわけにもいかず、ロイヤルミルクティを飲まないわけにもいかず、鼻を隠しながらマスクをとってロイヤルミルクティを飲みました

 


結局それが一番恥ずかしいんじゃないでしょうか

 

ここに書いてる時点で恥ずかしいか

 


バカは今日も平和でした

おやすみなさい

2種類の行列|他人とは分かり合えないけど、世の中捨てたもんじゃない

公共の場にいるときに他人が、自分が思ってたことと違うことをしても受け入れられるようになろうと思って過ごしています

不特定多数の約10名の息が合った行列と、

我先にと言わんばかりの行列の2つの体験についてお話しします

 


私の町の小さな診療所の待合室では、診察時間の前に受付までいって名前を書いて予約というか自分の順番とりをすることができます。

なので、診察開始するころに順番をとっても2時間待ちほどになってしまいます

 

 

 

 


予約開始まであと5分

小さな待合室に入りました

そこにいた人は行列をつくるわけではなく、人との距離をとりながら、ソファーに座っていた

待合室には4名の人がいて、私が5番目。

それなら私が予約を取るには少なくとも5番より早く書くのは遠慮しようと思っていた

予約1分前には10名ほどの人が順番を取りに来た

誰だって、早く順番をとりたい理由があるはずだし、窓口に予約票がでてきた瞬間、後から来たことなど関係なく我先に行列に並ぶ人がいても仕方ないと思っていた

私が行列に並べたとしても5番目以降にしようなどと考えてるから、私はいつまでも世渡りが下手なんだと考えてました

 


我先に精神といえば私はあるリユース品を配布する会場での出来事を思い出していた

ちびまるこちゃんのお母さんやサザエさんのようにバーゲンセールで大勢が商品を奪い合うように必死な大人の姿は、昔のことかアニメの世界だと思ってました。

「ちょっと押さないでよー」という言葉とか2人で服を引っ張り合う姿は見たことないけど、リユース品を必死にあさる大人の姿はほんとにあった。

それを"みにくい"とか"みっともない"とか思っちゃいけないと思ってる時点で、思ってるんですけど、結局そこの一部に私も含まれているわけです。

そのような体験をしたので、この診療所の待合室でも、予約の取り合いが起こっても、それを「なんて信じられない人たちなんだ」などと思わないで、私の思い通りにいくほうがおかしいんだと胸にとめていました。

 


リユース品の配布会場では、「はい、それでは」というアナウンスの時点で走っちゃいけないのに、走り出す人が何人もいて、「はじめます、走らないでください!」といわれていて、私が恥ずかしくなってしまいました。

でもそれが世渡り上手というものなのでしょうか。

私はマイペースというかトロい方なので、時に周りのスピードに乗れてないから、人の波に圧倒されてフリーズし、食い散らかされたあとの余り物を頂戴している感じです。

サバンナのお話では、ハイエナは、他の動物が食べることのできない骨と腐った肉を食べることによって、サバンナが綺麗に保たれているそうです。

そのように自然界の循環に役に立っているそうなので、私もハイエナのスタンスで堂々としていればいいのかもしれません。

そして私のマイペースを変えられないなら、余り物でも文句なしということにしています。

まわりから、もっと強く出てもいいと言ってもらえますが、それはなんというか、理想と私との摩擦が大きすぎるんですよね。

真面目だと損をすると言われます。

そうだと思います。

いらない真面目さを抱えて、損をして、バカバカしい限りです。

真面目をやめて、得をしても、たぶん私にとっては気分がよくないので損なのです。

損をしたくて損をしている、そんなバカバカしい私をなかなかやめられません。

でもマイペースで後ろの人を待たせたり、人の気を悪くするなら改善が必要かもしれません。

私が列の後ろにいればいるほど自分の遅れをカバーできなくなるので、早めに会場について並ぶようになりました。

会場での自分の動きをイメージトレーニングしてもたもたしないようにして開始時間を待ちます。

みんなに合わせて気持ち早足で歩いたり、目の前のリユース品に他に手を出す人がいたら、取り合いに引いてしまう私はその時は引いて待つことにしました。

引いてって、うわって顔をするってことじゃなくて、手を引いて待つんです。

カルタなら本気で取り合えるんですけどね。

自分ができそうなことは改善して、苦手なことは無理に変えずに、できるところから理想とありのままの自分とのバランスをとっている途中です。

 


大きな大学病院の席とか電車の中とか、人が座ってる場所では大体みんなスマホをみてるのに、診療所の予約前の待合室は誰一人スマホをみず、ポスターや本棚を見るわけでもなく、壁か床を静かに見つめ続ける人ばかりでした。

みんな本気だ。順番をとることに本気で集中しているんだと思いました。

壁にかかってる子ども新聞とか、本棚の背表紙とか、紅葉した木のカレンダーとか眺めてるのは私だけだと思いました。

みんなはもうよーいどんの、ヨーイを始めているんだろうから、ヨーイを初めてない私はこういうところから皆んなに抜かされるのかなと思いました。

さあ、診療所の待合室のカウンターから、予約票が出てきました。

私も叶うならなるべく早く診察を終えて、すぐに3つの用事を済ませて、次の約束の時間が迫ってるので焦っていました。

さすがの私もガツガツと気持ち強くささっと並ばなければと思って強気で椅子を立ちます。

でも目の前で鉢合わせた人は診療所に後から来た人だったのに、私は列に並ばず立ち止まってしまいました。

弱気に負けてしまいました。

そこは、前の列からちょうど5番目。

鉢合わせた人は、列に向かう足をとめてそっぽを向いています。

なんと、5番目を空けてくれてたんですよね。

しばらく待って、小さくお辞儀をして並ばせてもらいました。

そしてそれも束の間。

横から大きな男性が迫ってきました。

私の前に入るのか?

私は列を開けてるわけじゃない!

身体的距離をあけているだけなの!

心の中で言いました。

すると、男性は後ろの人に一礼して私の後ろに並びました。

たぶんみんな、自分が何番目に来たか把握しているんだと気がつきました。

 


なんて平和な順番とりなんだ!!

みんなにとっては当然の暗黙の了解なのでしょうか?

私はみんながみんな暗黙を了解すると思わないので、こんな安全安心が守られた行列にならべたことに、心がキュンとした感覚に近いほど感激しました。

たまたまかもしれないけど、こんなこともあるのか、世の中捨てたものじゃない。と思いました。

だからって、もっと人を信じようとか期待しようということにはならないけど、心の中で知らず知らずに作り上げてるどうせ他人なんてとか思ってる"ひねくれた私"をちょっとだけ真っ直ぐにしてくれました。

 


リユース品の配布会はまたいつか行くと思うんですけど、自分が守ってるマナーを守ってない人がいても受け入れていかねばと思います。

自分のトロさはコンプレックスです。

リユース品の配布会でトロさについて、私はこのままトロくていいのか?という疑問にぶつかります。でもそれは自分をアップデートするにはちょうど良いかもしれません。

安全安心が守られた列で得られるものも得られないものもあることをあとで気付かされました。

物事はコインのように2面性があるといいますが、冷静に考えればどちらも自分にとって価値に変えられるものかもしれません。

この2つの行列の話をしようとしたときには、完全にリユース配布会をディスるつもりだったのになぁ。

 

「嫌われる勇気」の読書感想

「他者に貢献するのだ」という導きの星を失わなければ、迷う事はないし、何をしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。

アドラーの言葉を紹介しました。

 


みなさんこんばんは。

 


今夜は「嫌われる勇気」を読んで感じた感想をお話しします。

心に響いた点はありすぎて、とても語りきれないのでほんの一部ですが、私の場合だったら、今日から、いまここから、こんなこと意識しながら過ごしていきたいな、という話です。

あなたの悩みによっては、どんな答えが欲しいか私と違うかもしれません。

ぜひ、嫌われる勇気の本を読んで、勇気をもらってください。

 

 

今日のお話は
・相手が決めることと自分が決めることを分ける

自分を変えられるのは自分だけ。

相手を変えられるのは相手だけ。

・他人の評価を基準に生きるのは不自由で、ウソの幸せ

・口出しじゃなくて、手助けをする

・存在レベルで息してる?

・今日も明日も「旅」で、過去も未来もトラウマもない

 

 

 

突然なんですけど、ここでひとつザ・創価学会って感じの思想をご紹介します。

 


自分で自分を不幸にも幸せにもする。

人や環境のせいではない。

人や環境のせいという愚痴の心がある限り、成長できない。

まず自分が変わる。

 


こういう、全て自分次第みたいな思想って、なんにでもちょっとずつあるんですけど、アドラー心理学にも似た部分がありました。

 


もちろん著書「嫌われる勇気」で、初めて気付かされる思想というか心理学もたくさん解き明かされていて、読んでいて発見の連続という感じでした。

 


(相手が決めることと自分が決めることを分ける)

そもそもなぜ「嫌われる勇気」が大事なの?

というところですが、相手が決めることと、自分が決めることを分けるという考え方がベースでした。

自分の行動は自分で決める。

私を好むか嫌うかは、相手が決める。

私がコントロールできない領域であること。

 


相手の判断は相手のものということですね。

私に「あんなのこと嫌い」とか「あんたは間違ってる」とか「こうした方がいいよ」というボールがきても、相手の意見として、そこで完結です。

もちろん自分に意見があれば相手が目上だろうと関係なく意見を言うことにアドラーは肯定的で、ただし伝えたら完結・終わりにするんだそうです。

めちゃめちゃ難しいと思いましたけど。

相手の意見をキャッチボールのようにとらえると、返さなきゃいけないとか、相手の期待に応えなきゃいけないって思うんですけど、それが自分にとって自己犠牲なら、幸せじゃないんですよね。

だからボールだと思わない方がいいか。

なんだろう、こっちに向かってなげられたけど完結のもの。

吹いても消えるシャボン玉とか?

昼ごろ家のポストに入るチラシですかね?

こんなテイクアウトやってますよ。いかがですか?

脱毛サロンお得ですよ!

こんな良い物件あいてますよ!

「ふむふむ」と見たら、リサイクル用紙のBOXにズボっと入れて、さっさと楽しいYouTubeの続きを見始める。そのくらい完結。(簡潔?)

…対ヒトからの言葉もそのくらいシンプルに仕分けられたらいいなーー!

 


例えがいまいちですが他に良い例えあったら教えてください。

 


これ、反対もいえるのできついんですよね。

自分が相手に助言したとして「あ、そうですか」って言われて終了しても、受け入れる器が私には必要だと思います。

私が相手に不満があったとして「もっとこうしてもらえると嬉しいな」と言っても、「あ、そうですか」といわれたら受け入れる。

いや、そんな優しく伝えられないときもある。

例えばというか実際にあった話なんですけど家族に「なんか私が持つ荷物だけ多くない?」と不満を言ってみて、それでも荷物を持ってもらえなくても、それは相手が決めることで、私がコントロールできる問題じゃない。

会社の人と協力して楽しく仕事を進めてると思ってたのに、ほんとは相手はめんどくさがって私に仕事をなすりつけてきていたことに気づいて

「え、やる気ないじゃないですか」と伝えました。

それでも相手が仕事を担ってくれなくても、それは私がコントロールできないこと。

会社の目上の人と回転寿司に行って、お会計のとき店員さんがお皿を数えにきてお会計をしたあと、帰ろうとしたら、その会社の人が背の低いお酒の瓶をこっそりお皿の後ろに隠しておいたことを嬉しそうに報告されました。

わたしはつい「そんなせこいことしちゃダメだよ!」と本気で言ってしまいました。

色々ツッコミどころはあるんですが、笑い話にできなかったことは、相手にどうすることもできない私の問題。

相手が変わるかどうかは相手にしかできないことなんですよね。

結局、相手は後日、次せこいことをしなかったことをわざわざ私に報告してくれたんですけどね。

何をしたかというと、セルフのガソリンスタンドで、前のお客さんが取り忘れたお釣りが千円以上あって、それをかっぱらわずに、店員さんに教えたというものでした。

それは相手が自分で自分を変えたというかコントロールしたのだと思います。

 


(相手の判断を基準に生きるのは不自由でウソの幸せ)

私が相手に助言したところで、自分に相手は変えられないし、やるかやらないか相手が決めることで、私が首を突っ込むところじゃないんですよね。

アドラーは教育の場面でもですね、大人が子供に、その行いは良い、その行いは悪いで「評価」をすることは反対しています。

結局、良いことをすれば褒められるし、注意されないし嫌われないという意識になって、

他人軸で生きちゃうんですね。

他人軸って自分が決められない、相手に決められる不自由な生き方です。

わたしは褒められたら嬉しいですよ。

嬉しいから褒められたことをきっかけに、褒められることが目的になって良いことをする。

褒められたいから頑張る。

褒められなかったら頑張れない。

ご褒美がないならやめる。

これって、残念ですよね。

大人がやらせてるから、子どももやらされてる感を感じてるのか、結局これでは誰も報われないですよね。

 


他人の「評価」を基準しても、ウソの喜び、ウソの幸せなんですよね。

アドラーはこれを「人生の嘘」と読んでます。

なにが人の幸せなのかというと、人に貢献することで生まれることなんですよね。

人から「ありがとう」と感謝されることです。

貢献といっても自分がやりたいことに限ります。

あと、ここがややこしいところで、ありがとうの言葉を欲しがったら、他人軸で生きることになっちゃうんですよね。

 

(存在レベルで息してる?)

自分という「存在」が何かの役に立てたことを「実感」できることが自分軸の幸せであり、喜びなんですね。

しかも注目なのが、何をしたという行為ではなく「存在レベル」なんですよね。

一方的にお世話をされる赤ちゃんでも、病気で動けない人でも、話すことのできない動物でも役に立てるってことなんですよね。

だって行為は関係ないから。

存在に価値があるから。

人がごほうびをくれるのでもなく、感謝の言葉をくれるのでもなく、自分が役に立てたことを「実感」できることが喜び。

自分の場合、どうやって実感すればいいのかまだよくわからないんですけど、さっき言った、赤ちゃんとか病気の例えば親戚とか動物とか思い浮かべてみて、私に行動として何かしてほしいなんて求めないですもんね。

存在してくれればそれで良いんだよって思いますもんね。

自分で自分の存在が役に立てた「実感」があれば自分は「ここにいてもいいんだ」と思える。

こういうのがアドラーがいう幸せなんですね。

自分の居場所は自分で作るって意味でもあるので、これまた厳しい助言なんですけどね。

 


(口出しじゃなくて手助けをする)

ちなみに、アドラーの教育の話に戻るのですが、助言しても意味がないのなら、どうやっって相手ができるようにするのかっていう疑問が生まれるんですけど、

相手がしたいことをできるように「手助け」をするのだそうです。

相手のことなら、確かに自分には踏み込めないことなんだけれど、きらわれる勇気の本の中の例えで、馬が水を飲めるように、馬を水飲み場まで連れて行く。

こうやって「導く」ことをさしているんですね。

水を飲むかどうかは馬本人にしかできないんですけど、私たちは導くことはできるということなんですね。

 

 

 

 


(今日も明日も「旅」で、過去も未来もトラウマもない)

旅の目的って「目的地のみ」じゃなくて「道のり」ですよね。

旅の一瞬一瞬が思い出に刻まれるものだと思います。

旅行の朝起きた時の気持ち。

どの道をどんな気持ちで通って、

普段乗らないような乗り物にドキドキしながら乗って移動して、

何をお昼に食べて、

道中に突然広がった景色が新鮮で写真をとったとか

その土地にいる人たちの県民性が面白かったとか、

こんなふうにいくら計画を立てて出かけたって、想定してないことが起きたり、発見があったり、それが思い出になっていくと思います。

 


旅の目的も生活の目的も、目先の目的地ではなく「いま現在」なんですね。

よく「過程」が大事だっていいますが、確かにそうです。

友情にしても、卒業式にしても、部活の試合のときも、何に涙を流すかって、それまでの過程に心が動かされるんですよね。

過程がなかったら、感動も喜びもない、あまりにもつまらないですよね。

ドラマも映画も、過程がなければ、結末だけみても心は動きません。

 


自分の最終目標に辿り着くか、たどり着かないかよりも「過程」が目的なんですね。

 


みなさんは動物飼ってますか?

動物にご飯を与えて生かすことが目的というより、動物と暮らす1日1日に目的があると思います。

 


明日とか今日、もっと言えば「今」が目的で、今を一生懸命過ごしたら良いと思いました。

 


一生懸命というのも、自己犠牲ではありません。

自分はしたくないのに人に尽くすのではありません。それは他者貢献じゃなくて、自己犠牲ですね。

自分のために一生懸命とりくむ。

アドラーは、人生はレールのような線でつながっているのではなく、点と点で続いていくといいます。つまり、刹那なんだそうです。

 


過去のことより、今のこと。

明日のことより、今のこと。

 


今日というかこの原稿を書いてる今の気持ちをつづるんですが、

 


3時間前、ウソのように泣いてたんですよ。

もちろん、きっかけになることはありました。

もう、自己犠牲のコップの水が溢れたという感覚でした。

涙が出るほどいっぱいいっぱいになったのは、たぶんpmsがとどめとなって、心がくじけてしまったんですね。

排卵日前後は辛いですよね〜。

ホルモンに、アホみたいに振り回されるんですよ。

あ、ちなみに、アドラーは「原因」なんてものは否定してます。

自分は疲れてるんだ、とか、排卵日のせいだとかいってたらたぶんアドラーに「ほんとに書籍を読んだのか?出直してこい」と言われます。

アドラーは原因なんてないというので、排卵日だから、涙もろくなったのではなく、

「泣きたい」のが目的だから「排卵日」のせいにする。

頭が混乱しそうな解説でとても独特に感じます。

原因なんてないので、トラウマも否定しています。

トラウマがあるから〇〇できない。

のではなく、〇〇したくないから自分でトラウマを作り出して、トラウマのせいで自分はできないんだと思い込んでいる。

しかも、できないと嘆いていながら、トラウマのせいにするほうが自分にとって都合がいい。

できるように変わることが怖いから。

変わる勇気がないから。

幸せになる勇気がないから。

うーん、耳が痛かったですねー。

このアドラー心理学を本当に理解して、自分のものにするには現在の年齢の半分はかかるみたいです。

だからあと20年近く学び直しです。

 


で、3時間前には想像できなかった現在、ひょんなことから公園のベンチで日向ぼっこをしています。

 


3時間前まで「もう、ギブアップだ」

人になんて説明しようかと困り果ててました。

 


なのに現在「なんか、今日私いけるかも」って思えてきました。

 


そのくらい、過去は、現在につながってるようで繋がってない。

現在は未来につながってるようでつながってない。

 


人生は本来シンプルなのに、自分が人生を複雑にしているのだそうです。

「いま」だけ考えればいいのに。

計画なんて意味がないばかりではなく、実現不可能なんだそうです。

「いま」を、人のためじゃなくて、自分のために一生懸命過ごして、一つの点をつくる。

今日の昼も夜も、点はそこで完結して、また次の新しい点をつくっていく。

 


いま、立っているここに、本当は一直線の道はないし、この先は、まっさらです。

雪が降った直後の足あと1つない景色を想像したらわかりやすいんですが、もうあんな風に行く道も帰る道も、頭の中で白く消してしまえばいいですね。

どこを歩くか自分で決める。

自分がやるか、やらないか自分で決める。

相手に「はい」というか「いいえ」というか自分で決める。

 


反対に言えば、他人が私のことを決めたり、私を変えることもできないんですよね。

 


自分の価値は、自分が決める。

言われたからやるんじゃない。

自分がやりたいからやる。

人に尽くすことや、辛い運動とかも。

褒められるためにやるんじゃない。

褒められないから、感謝されないからって拗ねない。

うん、私ならたぶんそのうち拗ねるけど。

他人に認められるために頑張るんじゃない。

自分で自分を認めたいから頑張る。

毎日平均25点の私を受け入れる。

自分の評価で生きる。

他人の評価で生きるから、不自由になるし、面白くなくなる。

自分から笑顔がなくなる。

 


誰かが不幸や幸せにするんじゃない。

自分で自分を不幸にも幸せにもする。

 


こんな感じで、自由になるって、ある意味孤独の戦いというか、厳しさすら感じるんですけど、

 

 

 

 

 

 

明日の朝も昼も夜も、点々をつくっていって、いつのまにかどこかにたどり着く。

 


だから今は、一生懸命ひなたぼっこをします。

 

読書ぎらいな女の読書の秋が到来

読書、たぶん苦手です。

でも読書ができるようになりました。

できるようになったというより、たまに読書がマイブームになるだけです。

でもいつもの読書マイブームよりも今回は続いています。

なんでかというと、この秋は、初めて本の試し読みができる本屋のカフェへ通うようになりました。

それまでは図書館に行っていました。

本屋の良いところは図書館に置いてない新刊など沢山の本から選べることです。

あとは本屋さんやカフェがおしゃれでときめいてる面も大いにあると思います。

本を借りたり購入するといつでも読めるので読みこもうとしないことが多いです。

あとは、人がいる場所だとサボりにくくなって、本を読むつもりならちゃんと本を読みます。

人は私のことを注視してないんですが、人の気配があるとサボりにくくなることを「ピアプレッシャー」と呼ばれているそうです。

家にいると、本を開いてちょっと読んだらひっくり返して置いて、フラフラどこかへ行ってるうちに読書を忘れて、思い出したころにはもういいやとなっています。

積読とはよく言ったもので、私は立てて置いてありますが、それはどうでもいいんですが、開かずじまいで図書館なら返却日を迎えることもあります。

あるいは購入した本なら、場所を取る。処分する決断にエネルギーを使います。

私、飲食にお金を使うのはあまり好きじゃないので、水筒にコーヒーを入れて持ち歩いています。

本を読むために、カフェでコーヒーを頼んで、限られた時間だけ読むことが私にとって有意義かどうか、本屋で本を選んでるふりをしながらよく考えました。

そして本を選んで手に取り、カフェにも慣れてないので挙動不審にコーヒーを選びに行きました。

本屋で選んできた本の表紙も背表紙も、なんとなく照れくさくて隠しながらカウンターというかレジまで行きました。

本を隠すのは、私の悩みや知りたいことは内緒にしたいからです。

昔コンビニで働いてたとき、男性がレジに持ってきた本の題名が「モテたい!!!」という本のバーコードを読み込んで、私はこの人モテたいんだ…と自然と思ったからです。

私がカフェのレジの店員さんの前へ行ったとき、私の腕の間に挟んでいた本はひろゆきさんの99%はバイアスの本でした。

なんとなく心の中でひろゆきさんに謝りました。

店員さんが私の気配に気がつき「いらっしゃいませ」と言われました。

もう後には戻れません。

 


一番安いコーヒーと思ったのですが、コーヒーは水筒にあるから、と、ちょっと高いロイヤルミルクティーを選びました。

なんだかおしゃれな自分にとても満足しました。

カードに1000円チャージで何十%かオフになる忘れたんですけど、カードをお作りしますか?と聞かれて、まんまと作りました。

安いコーヒーをと思ったのに、カードにチャージしたからまた読書しに来なきゃいけないな。それは良いことだと都合よく思い込んだ私はあっという間に生活費の1000円を使いました。

そしてこの台本を書いてたこの日もその後カフェへ行きました。

そして、一人で陣取っても迷惑にならなそうな小さな席で、かつ一人がけのソファーの椅子を選んで、読書ぎらいが最大3時間も読書を楽しむ秋がやってきました。

楽しむと言いましたが、ほんとは私の心の中は空虚です。

毎日やることや人に尽くすことに追われて消えかかってる自分を必死に取り戻そうと、人の誘いを断ってまで一人の時間を作りました。このわずかな時間だけでも、楽しくホクホクとしていたいです。

みなさんはどんな秋を楽しんでいますか?

みなさんもなんとか心と体の健康を守ってくださいね。

 


私はYouTubeで人の話を聞くのが好きです。

漫画も読めないほど活字が苦手で、本と縁することはほとんどないです。

でも、YouTubeで知った人の本は読んでみたいと思えました。

私の読書ブームの入り口はそんな感じで、本と縁がなさそうでも、なにかの興味から読書まで行きつけたのはラッキーでした。

漠然と、みなさん本読まれてるんだろうなぁ…と思います。

私も読書してみて、気持ちがガラッと変わる感覚がとても新鮮でした。

読書する人って、こんなふうにいつも新しい世界をインプットしてるんだ。

なんて素敵なんだろうと憧れました。

 


さっき、楽しむと言ったけど私の心の中は空虚です。と言いました。

そういう自分が自分でないような心の調子の悪さは、だいたいホルモンとか脳のせいだと思ってます。

自分の気分を変えてあげるには、自分の手で興味のある新しいものを見せてあげたり、今回なら本ですね。

自分の足で、新しい景色を見せに自分を連れてってあげます。

小さな発見や感動により、脳を認識を変えるというか心を動かすというかソワソワしてたはずの気持ちが変わるので、最近はそんな感じで、自分を取り戻しています。

 


みなさんもご自愛ください。

自分も人も責めない方法を発見!感情に名前をつける

感情に名前をつけると、「あの人のせい!」とか「また怒っちゃった。自分はダメだ」と思うことが減った。

 

なんでかと言うと「感情のせい」にできるから、自分や関係者と切り離して、冷静にとらえられる。

 

私も名前をつけてみた。

荒れ果てた部屋。

終わりのない家事。

その名は「どよんちゃん」

ドキンちゃんみたいなイントネーションで、かわいく呼んでね。

 

 

怒りしんとう!!

噴火寸前じゃなくて、噴火しました。

その名は「ふんかちゃん」

みかちゃん、みたいなイントネーションで、かわいく、ふんかちゃんと呼んでね。

 

家族のいびき!!

わたくしの睡眠の邪魔をするなんて許さない!

いびきを聞いた瞬間、私の心臓はドキドキ、胸はイライラ、寝てる場合じゃなくなるほどのストレス反応!

私の副交感神経を返せ!

名前は「ガオガオくん」

 

名前を付けると、ほらフシギ。

ガオガオくんだと思えば、恨めしい家族の顔をストレートには思い浮かばない。

家族を起こす、私のペシペシ!(手)の力は少し和らぎそう。

※少しな!

 

イライラする自分が悪いんだという自責の念じゃなくて、自分から切り離した「感情の魂」みたいになる。

ちょっと人ごとになる。

 

 

だから、荒れ果てた部屋も溜まった家事も人ごとにしちゃえ。

「どよんちゃん」のせい。

だから、仕方ないなって思いながら綺麗に片付けるよ。

その方が、私も空気も平和でしょ。

 

気どったサラダを作ったら人生について考え出した。喜びや価値や自信は「足りない」から生まれる。

 

 

毎日の生活の中で、

「あぁ、もっと◯◯だったら…」

 

って思うことは、よくあります。

 

 

でも最近よく思います。

「なかなか手に入らないから良い」って。

 

今までもなんとなく頭ではわかっていたけど、

手に入らないことで別の角度から喜びを実感するようになってきました。

 

「足りない」から心が豊かになっていくことを、いつのまにか感じているようになりました。

 

 

モノの豊かさでは、心は豊かになっていかないんだと、少し気がつきました。

 

モノって、心以外の全部です。

人も入っています。

(人に対する感情は心ですが。)

お金だったり、時間だったり、欲しいもの全部です。

 

喜びや、幸せは、心で感じるものだから、心が豊かになれるような日常を送れることが大切なんだと思いました。

 

 

例えば今日だったら… 

バジルの葉と、たくさんのトマトをいただいたので、私はあこがれのイタリアンみたいな気どったサラダを作りたくなりました。

 

 

きざんだトマトはボウル1杯分です!

ニンニクをいれて、

胡椒をいれて、お塩をしっかり効かせて、

玉ねぎもオイルも入れて、

バジルを入れます。

 

いよいよ仕上げ!

冷蔵庫から出したのは、

 

ベビーチーズ1つ。

 

 

「もっとふんだんに使えたら、もっとおいしいのに。」

モッツァレラチーズだったら、もっと本格的なのに。」

 

毎日、いろいろな場面で心の中にあふれてきます。

「もっと」とか「こうだったらいいのに」とか。

 

 

でも赤毛のアンが空想すると、目を輝かせて「こうだったら素敵だわぁ!」と、足りないことを「夢」として思い描いているんです。

 

不満を漏らすんじゃなくて「夢」として語ればロマンになるし、とにかく自分がワクワクしてきます。

 

 

さぁ、気どったサラダ作りに戻りましょう。

 

少しのチーズがお料理の全体に行き渡るように、小さく切って

 

まんべんなくチーズが味わえるようにサラダを作りました。

 

 

食べてみたら、たまにコロッと噛み締めるチーズが…おいしいんですよ。

 

トマトに合いますよね。

 

そしてまた

 

「あぁ、このチーズがモッツァレラなら、さぞ美味しいのに。」

 

って思うんだけど、

 

大切なことに気がつきました。

 

節約生活していなければ、私はきどった美味しいサラダを作れるようにならなかった。

だって買えばいい。

私だったら買っちゃう。

モッツァレラチーズを買って、

ドレッシングを買って、

 

ナントカリーフとかお洒落な葉っぱも買って、見た目も最高で、いざ「いただきます」って食べたら?

 

「おいしい」って言うと思います。

 

そして「当たり前じゃん。」って思うと思います。

 

一緒に食べる人と楽しく美味しく食べるのは、心を豊かにして価値あることだと思うけど、

 

今日重要だったのは「コストをかけなくてもきどったサラダを家で作って食べられた。それを私に作ることができた」という体験でした。

 

それが自信や喜びになります。

それって、価値のあることだと思いました。

 

お金が「足りない」ことで、価値が生まれました。

 

工夫したり、生活の知恵も少しはついたり、

今日1日のうちの、たった一コマの出来事でも、私自身が豊かになった体験ができました。

 

そしてもう一つ大切なのは、

「自分自身が得ているものに気がつくこと」

 

気がつくようになったことも、

私の一歩前進だし、

 

「足りない」ことが苦労だと捉えたら、

「疲れ」と「ストレス」を積み重ねていくだけです。

それ、いつもの私なんですけどね。

 

 

無理矢理に、現状を美化して考えることはしません。

 

勝手に喜びを感じられるまで、感情の変化は自然にまかせています。

 

今日はたまたま、きどったサラダが私に喜びを気がつかせてくれました。

 

次にきどったサラダを作ったとき、

「あぁ、もっとチーズをふんだんに使えたらいいのに。この生活は不満だわ。」

と思っても、それはそれでいいんです。

 

お料理の前に何か面白くないことが起きて、機嫌を損ねているかもしれないし。

 

喜びに気がつくのにも自分のコンディションとのタイミングがあると思うので、1日のうちにどこかで一つ喜びを見つければ、豊かな1日になるはずです。

 

豊かな1日は、

心地よい疲労感と満足感があって、

私を機嫌よく、明るく、前向きに

してくれます。

 

明日も豊かな1日を過ごしたいです。