「嫌われる勇気」の読書感想

「他者に貢献するのだ」という導きの星を失わなければ、迷う事はないし、何をしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。

アドラーの言葉を紹介しました。

 


みなさんこんばんは。

 


今夜は「嫌われる勇気」を読んで感じた感想をお話しします。

心に響いた点はありすぎて、とても語りきれないのでほんの一部ですが、私の場合だったら、今日から、いまここから、こんなこと意識しながら過ごしていきたいな、という話です。

あなたの悩みによっては、どんな答えが欲しいか私と違うかもしれません。

ぜひ、嫌われる勇気の本を読んで、勇気をもらってください。

 

 

今日のお話は
・相手が決めることと自分が決めることを分ける

自分を変えられるのは自分だけ。

相手を変えられるのは相手だけ。

・他人の評価を基準に生きるのは不自由で、ウソの幸せ

・口出しじゃなくて、手助けをする

・存在レベルで息してる?

・今日も明日も「旅」で、過去も未来もトラウマもない

 

 

 

突然なんですけど、ここでひとつザ・創価学会って感じの思想をご紹介します。

 


自分で自分を不幸にも幸せにもする。

人や環境のせいではない。

人や環境のせいという愚痴の心がある限り、成長できない。

まず自分が変わる。

 


こういう、全て自分次第みたいな思想って、なんにでもちょっとずつあるんですけど、アドラー心理学にも似た部分がありました。

 


もちろん著書「嫌われる勇気」で、初めて気付かされる思想というか心理学もたくさん解き明かされていて、読んでいて発見の連続という感じでした。

 


(相手が決めることと自分が決めることを分ける)

そもそもなぜ「嫌われる勇気」が大事なの?

というところですが、相手が決めることと、自分が決めることを分けるという考え方がベースでした。

自分の行動は自分で決める。

私を好むか嫌うかは、相手が決める。

私がコントロールできない領域であること。

 


相手の判断は相手のものということですね。

私に「あんなのこと嫌い」とか「あんたは間違ってる」とか「こうした方がいいよ」というボールがきても、相手の意見として、そこで完結です。

もちろん自分に意見があれば相手が目上だろうと関係なく意見を言うことにアドラーは肯定的で、ただし伝えたら完結・終わりにするんだそうです。

めちゃめちゃ難しいと思いましたけど。

相手の意見をキャッチボールのようにとらえると、返さなきゃいけないとか、相手の期待に応えなきゃいけないって思うんですけど、それが自分にとって自己犠牲なら、幸せじゃないんですよね。

だからボールだと思わない方がいいか。

なんだろう、こっちに向かってなげられたけど完結のもの。

吹いても消えるシャボン玉とか?

昼ごろ家のポストに入るチラシですかね?

こんなテイクアウトやってますよ。いかがですか?

脱毛サロンお得ですよ!

こんな良い物件あいてますよ!

「ふむふむ」と見たら、リサイクル用紙のBOXにズボっと入れて、さっさと楽しいYouTubeの続きを見始める。そのくらい完結。(簡潔?)

…対ヒトからの言葉もそのくらいシンプルに仕分けられたらいいなーー!

 


例えがいまいちですが他に良い例えあったら教えてください。

 


これ、反対もいえるのできついんですよね。

自分が相手に助言したとして「あ、そうですか」って言われて終了しても、受け入れる器が私には必要だと思います。

私が相手に不満があったとして「もっとこうしてもらえると嬉しいな」と言っても、「あ、そうですか」といわれたら受け入れる。

いや、そんな優しく伝えられないときもある。

例えばというか実際にあった話なんですけど家族に「なんか私が持つ荷物だけ多くない?」と不満を言ってみて、それでも荷物を持ってもらえなくても、それは相手が決めることで、私がコントロールできる問題じゃない。

会社の人と協力して楽しく仕事を進めてると思ってたのに、ほんとは相手はめんどくさがって私に仕事をなすりつけてきていたことに気づいて

「え、やる気ないじゃないですか」と伝えました。

それでも相手が仕事を担ってくれなくても、それは私がコントロールできないこと。

会社の目上の人と回転寿司に行って、お会計のとき店員さんがお皿を数えにきてお会計をしたあと、帰ろうとしたら、その会社の人が背の低いお酒の瓶をこっそりお皿の後ろに隠しておいたことを嬉しそうに報告されました。

わたしはつい「そんなせこいことしちゃダメだよ!」と本気で言ってしまいました。

色々ツッコミどころはあるんですが、笑い話にできなかったことは、相手にどうすることもできない私の問題。

相手が変わるかどうかは相手にしかできないことなんですよね。

結局、相手は後日、次せこいことをしなかったことをわざわざ私に報告してくれたんですけどね。

何をしたかというと、セルフのガソリンスタンドで、前のお客さんが取り忘れたお釣りが千円以上あって、それをかっぱらわずに、店員さんに教えたというものでした。

それは相手が自分で自分を変えたというかコントロールしたのだと思います。

 


(相手の判断を基準に生きるのは不自由でウソの幸せ)

私が相手に助言したところで、自分に相手は変えられないし、やるかやらないか相手が決めることで、私が首を突っ込むところじゃないんですよね。

アドラーは教育の場面でもですね、大人が子供に、その行いは良い、その行いは悪いで「評価」をすることは反対しています。

結局、良いことをすれば褒められるし、注意されないし嫌われないという意識になって、

他人軸で生きちゃうんですね。

他人軸って自分が決められない、相手に決められる不自由な生き方です。

わたしは褒められたら嬉しいですよ。

嬉しいから褒められたことをきっかけに、褒められることが目的になって良いことをする。

褒められたいから頑張る。

褒められなかったら頑張れない。

ご褒美がないならやめる。

これって、残念ですよね。

大人がやらせてるから、子どももやらされてる感を感じてるのか、結局これでは誰も報われないですよね。

 


他人の「評価」を基準しても、ウソの喜び、ウソの幸せなんですよね。

アドラーはこれを「人生の嘘」と読んでます。

なにが人の幸せなのかというと、人に貢献することで生まれることなんですよね。

人から「ありがとう」と感謝されることです。

貢献といっても自分がやりたいことに限ります。

あと、ここがややこしいところで、ありがとうの言葉を欲しがったら、他人軸で生きることになっちゃうんですよね。

 

(存在レベルで息してる?)

自分という「存在」が何かの役に立てたことを「実感」できることが自分軸の幸せであり、喜びなんですね。

しかも注目なのが、何をしたという行為ではなく「存在レベル」なんですよね。

一方的にお世話をされる赤ちゃんでも、病気で動けない人でも、話すことのできない動物でも役に立てるってことなんですよね。

だって行為は関係ないから。

存在に価値があるから。

人がごほうびをくれるのでもなく、感謝の言葉をくれるのでもなく、自分が役に立てたことを「実感」できることが喜び。

自分の場合、どうやって実感すればいいのかまだよくわからないんですけど、さっき言った、赤ちゃんとか病気の例えば親戚とか動物とか思い浮かべてみて、私に行動として何かしてほしいなんて求めないですもんね。

存在してくれればそれで良いんだよって思いますもんね。

自分で自分の存在が役に立てた「実感」があれば自分は「ここにいてもいいんだ」と思える。

こういうのがアドラーがいう幸せなんですね。

自分の居場所は自分で作るって意味でもあるので、これまた厳しい助言なんですけどね。

 


(口出しじゃなくて手助けをする)

ちなみに、アドラーの教育の話に戻るのですが、助言しても意味がないのなら、どうやっって相手ができるようにするのかっていう疑問が生まれるんですけど、

相手がしたいことをできるように「手助け」をするのだそうです。

相手のことなら、確かに自分には踏み込めないことなんだけれど、きらわれる勇気の本の中の例えで、馬が水を飲めるように、馬を水飲み場まで連れて行く。

こうやって「導く」ことをさしているんですね。

水を飲むかどうかは馬本人にしかできないんですけど、私たちは導くことはできるということなんですね。

 

 

 

 


(今日も明日も「旅」で、過去も未来もトラウマもない)

旅の目的って「目的地のみ」じゃなくて「道のり」ですよね。

旅の一瞬一瞬が思い出に刻まれるものだと思います。

旅行の朝起きた時の気持ち。

どの道をどんな気持ちで通って、

普段乗らないような乗り物にドキドキしながら乗って移動して、

何をお昼に食べて、

道中に突然広がった景色が新鮮で写真をとったとか

その土地にいる人たちの県民性が面白かったとか、

こんなふうにいくら計画を立てて出かけたって、想定してないことが起きたり、発見があったり、それが思い出になっていくと思います。

 


旅の目的も生活の目的も、目先の目的地ではなく「いま現在」なんですね。

よく「過程」が大事だっていいますが、確かにそうです。

友情にしても、卒業式にしても、部活の試合のときも、何に涙を流すかって、それまでの過程に心が動かされるんですよね。

過程がなかったら、感動も喜びもない、あまりにもつまらないですよね。

ドラマも映画も、過程がなければ、結末だけみても心は動きません。

 


自分の最終目標に辿り着くか、たどり着かないかよりも「過程」が目的なんですね。

 


みなさんは動物飼ってますか?

動物にご飯を与えて生かすことが目的というより、動物と暮らす1日1日に目的があると思います。

 


明日とか今日、もっと言えば「今」が目的で、今を一生懸命過ごしたら良いと思いました。

 


一生懸命というのも、自己犠牲ではありません。

自分はしたくないのに人に尽くすのではありません。それは他者貢献じゃなくて、自己犠牲ですね。

自分のために一生懸命とりくむ。

アドラーは、人生はレールのような線でつながっているのではなく、点と点で続いていくといいます。つまり、刹那なんだそうです。

 


過去のことより、今のこと。

明日のことより、今のこと。

 


今日というかこの原稿を書いてる今の気持ちをつづるんですが、

 


3時間前、ウソのように泣いてたんですよ。

もちろん、きっかけになることはありました。

もう、自己犠牲のコップの水が溢れたという感覚でした。

涙が出るほどいっぱいいっぱいになったのは、たぶんpmsがとどめとなって、心がくじけてしまったんですね。

排卵日前後は辛いですよね〜。

ホルモンに、アホみたいに振り回されるんですよ。

あ、ちなみに、アドラーは「原因」なんてものは否定してます。

自分は疲れてるんだ、とか、排卵日のせいだとかいってたらたぶんアドラーに「ほんとに書籍を読んだのか?出直してこい」と言われます。

アドラーは原因なんてないというので、排卵日だから、涙もろくなったのではなく、

「泣きたい」のが目的だから「排卵日」のせいにする。

頭が混乱しそうな解説でとても独特に感じます。

原因なんてないので、トラウマも否定しています。

トラウマがあるから〇〇できない。

のではなく、〇〇したくないから自分でトラウマを作り出して、トラウマのせいで自分はできないんだと思い込んでいる。

しかも、できないと嘆いていながら、トラウマのせいにするほうが自分にとって都合がいい。

できるように変わることが怖いから。

変わる勇気がないから。

幸せになる勇気がないから。

うーん、耳が痛かったですねー。

このアドラー心理学を本当に理解して、自分のものにするには現在の年齢の半分はかかるみたいです。

だからあと20年近く学び直しです。

 


で、3時間前には想像できなかった現在、ひょんなことから公園のベンチで日向ぼっこをしています。

 


3時間前まで「もう、ギブアップだ」

人になんて説明しようかと困り果ててました。

 


なのに現在「なんか、今日私いけるかも」って思えてきました。

 


そのくらい、過去は、現在につながってるようで繋がってない。

現在は未来につながってるようでつながってない。

 


人生は本来シンプルなのに、自分が人生を複雑にしているのだそうです。

「いま」だけ考えればいいのに。

計画なんて意味がないばかりではなく、実現不可能なんだそうです。

「いま」を、人のためじゃなくて、自分のために一生懸命過ごして、一つの点をつくる。

今日の昼も夜も、点はそこで完結して、また次の新しい点をつくっていく。

 


いま、立っているここに、本当は一直線の道はないし、この先は、まっさらです。

雪が降った直後の足あと1つない景色を想像したらわかりやすいんですが、もうあんな風に行く道も帰る道も、頭の中で白く消してしまえばいいですね。

どこを歩くか自分で決める。

自分がやるか、やらないか自分で決める。

相手に「はい」というか「いいえ」というか自分で決める。

 


反対に言えば、他人が私のことを決めたり、私を変えることもできないんですよね。

 


自分の価値は、自分が決める。

言われたからやるんじゃない。

自分がやりたいからやる。

人に尽くすことや、辛い運動とかも。

褒められるためにやるんじゃない。

褒められないから、感謝されないからって拗ねない。

うん、私ならたぶんそのうち拗ねるけど。

他人に認められるために頑張るんじゃない。

自分で自分を認めたいから頑張る。

毎日平均25点の私を受け入れる。

自分の評価で生きる。

他人の評価で生きるから、不自由になるし、面白くなくなる。

自分から笑顔がなくなる。

 


誰かが不幸や幸せにするんじゃない。

自分で自分を不幸にも幸せにもする。

 


こんな感じで、自由になるって、ある意味孤独の戦いというか、厳しさすら感じるんですけど、

 

 

 

 

 

 

明日の朝も昼も夜も、点々をつくっていって、いつのまにかどこかにたどり着く。

 


だから今は、一生懸命ひなたぼっこをします。