3月8日の日記 「自分で選ぶ」ことは生きる力になる。新年度への不安。

3月8日の日記

「自分と人を比べてはいけない」という言葉に縛られる

新年度への不安。

「選べる」という自由。

 


人と比べて凹んだから、比べてしまったことへの罪悪感。

人と比べて安心したから、比べてしまったことへの罪悪感。

未来は「自分が選べる」という自由を思い出す。「自分が選ぶ」ことが生きる力になる。

という話をします。

 

 

 

 


戦時中の物語「この世界の片隅に」のDVDを観ました。

そこで思いの外ショックなシーンがあって、私が今暮らしている世界の平穏さを思い知らされました。

そこで、こんなに平穏なのだから、それだけでどれほど幸せなのかという有り難さとともに、戦争のない時代を生きていて本当に良かったと安堵したことに、なんだか罪悪感を覚えました。

 


昔と今を比べて、今の方が安全で恵まれているから安心してしまったからです。

「人と比べてはいけない」という概念が私の中でザワザワとしてしまった日でした。

あれもこれもあるのに、何で私はこんなに不満なんだろう。不幸な気分がしてしまうんだろう。

そんな怒りも自分の中に湧き上がりました。

 


昨日も人と比べていました。

この前の動画で4ケタの数字を覚えられなくて失敗をする話をしました。

昨日、市役所の人が私に難しい説明をしながら、パソコンに十数

文字の数字を滞りなく打ち込んでいました。

それでスムーズに事務処理が進んでいくので、数字が間違ってたら進まないんですよ。

だから間違ってもないし、そんなの当たり前のように十数文字の数字を打ち込んだ後、もう一度チェックすることもありません。

打ちながら画面を見るわけでもなく、自分への信頼の厚さに憧れてしまいました。

私は心の中で、す、すげぇ…と自分との格差を思い知り、市役所の人から受けた説明すら十分に聞き取れていませんでした。

そして、私の暗証番号4文字を何度も私が打ち込む作業があったので、何度も「暗証番号お願いします」と言われました。

その度に私は暗証番号を記載した紙を見ながら打ち込みました。なんでこの4ケタにしたのかも覚えていなくて、だから余計記憶できません。

この格差、恥ずかしいけど、仕方ありません。

「人と自分を比べてはいけない」というよく聞く教えが私を縛ってきます。

人と比べて、劣等感が刺激されますが、事実は事実として受け止めたつもりです。

 


比べるといううえでその日は映画でも比べることをしていました。

映画の話に戻って、ほとんどはほのぼのした映画だと思って安心して観ていました。

 


戦時中の映画なので、覚悟のうえで見るべきでしたが、映画の後半の方でショックを受けてしまいました。

涙が溢れました。

戦時中のショックなお話も含まれるので、苦手な方はご視聴を控えてください。

 


私は戦争の悲惨さを知りたいよりかは、ヒューマンドラマが好きなので観てみました。

食糧や物など限られた環境で、主人公はどのように幸せを見出して生活していたのだろうということが知りたかったんですよね。

確かに、ほのぼのとしていて健気に前向きに暮らしていました。

だけど、空爆によって一瞬にして、自分が今手を繋いでいた大切な人が消え去ってしまいました。

繋いでいた自分の右手も一緒に。

 


大切な人とともに自分の右腕を失ったのは主人公です。

主人公は、もしもあのとき私がこうしていれば、という思いが溢れて止まらなくなります。

自分が右を歩いていれば、

隠れる場所があれば、

もっと早く逃げていれば、

主人公は一瞬の出来事によって、変えられない過去や悔いを一生背負って生きていくのか…と思いました。

そんな思いまでしても戦争には負けて。

 


子どもの隣でお母さんが力尽き、ハエがたかってきてお母さんは亡くなります。

それでも子どもはお母さんを探し求めます。

お母さんみたいに右腕を失った女性を見つけます。

灰色に汚れた子ども。

お腹が空いているはずなのに、配給でもらった一つのおにぎりをお母さんに似た女性に差し出します。

女性に、ええよ、食べ、と言われます。

子どもは、おにぎりを食べ、女性の頬についていた一粒のご飯もつまんで食べました。

そして女性に抱きつきます。

その女性は主人公なんですけどね。

幼い子を残して亡くなったお母さん。

自分より先に幼い子を亡くしたお母さん。

 


たくさんの人が家族を失い、日々、自分の大切な人を探し歩いています。

他人に「〇〇さん?〇〇さんでしょう?」

と呼び止められる。

「違います」と答えたりとか。

 


消え去ってしまった子は、春から小学生に上がるはずだったのかな?

友達ができるか、心配していました。

 


私も先を案じて不安になることは沢山ありました。

春が来るのが怖かった。

桜が咲くのが怖くてたまらない学生時代がありました。

 


新学期や新年度が始まる前に自殺者が増える現実など、色んなことが頭を巡りました。

 


悩みや苦しみに優劣はありません。

本人が辛ければそれが真実だと思いますし。

 


新学期を迎えられずに意図せず亡くなってしまった人。

新学期を迎えたくなくて亡くなってしまった人。

 


後者は、選ぶことができるんだと気がつきました。

生きる生きないに限らず、結婚の時期も結婚相手も、仕事や学校や将来に向かって進むか、諦めて目標を変えるか、頑張るか休むか。

選べることは、戦争のない今の日本の財産の一つだと思います。

 


例えばお金持ちになることを選ぶのは難しいですけどね。

お金ならもっと根本の、何にお金を使うかとか、どこを努力して節約するか、とか選べるんですよね。

 


いや、選ぶことなんてできない、と私はずっと思ってました。

「選ぶことはできないから、やるしかない」「やらなきゃ誰誰にこう言われる、こう思われる」とか色んな不安とかプライドがあって「選ぶことはできない、選択肢はない」って思ってたんですけど、それも私が選択してるんですよね。

選ぶことはしないと決めている。

選択肢はないと決めている。

 


「やるしかない」ってことを選んでる。

「休まない」ってことを選んでる。

「誰かにこう思われたくない」ってことを選んでるんですよね。

「今、転職してる場合じゃない」ってことを選んでる。

「人と接したくない」ってことを選んでる。

「自分は、変われない」ってことを選んでる。

アドラー心理学の言葉は厳しかったです。

人が変われないのは、変わりたくないという目的があることを説いていて、変わらない自分の方が都合が良いからということを言ってるんですね。

厳しい〜と思ったけど、ぐうの音も出ませんでした。

変わるということは、今まで自分を肯定してきたものを否定しなくてはいけないから苦しいんですよね。

 


「休むわけにはいかない」

「辞めるわけにはいかない」

「諦めるわけにはいかない」

そう思って頑張ってきた自分を見直して、

いや、休もう。辞めよう。諦めよう。

ってギアチェンジすることが「変わる」とか「選ぶ」ことだとしたら、180°くらい変わることなので、相当苦しいわけです。

「変わる」より「工夫しよう」って話もアドバイスでよく聞く言葉なのでね、どうしても変われないことは変わらないか、やらないか工夫するという手がありますね。

 


私がギアチェンジができないときは、変わることもできない、頑張るのも、休むのもできなくなって、「もう人生終わりにするしかない」っていう思考に脳がバグを起こしてくるんですよね。

疲れ切って。

もともと白黒思考で間を考えるのが苦手なんですけどね。

それで命を落としてしまったら本末転倒なんですよ。

誰かのためにじゃなくて、自分のために生きることが生きる力に直結すると思うので。

 


しのうとか思うのは脳のバグですからね。

本人がおかしいのではなく脳がおかしくなるほど疲れているので従ってはいけないんですよね、本当は。

 


で話を戻しますが、戦争のない現代には「選べる」ことが沢山あります。

病気や障害をもたないことは選べませんけどね、どんな自分であっても、こんな自分が今日1日どんな選択をするか選べるんです。

 


でも私は休みたくても休めないんですよね。

「休まない」っていう選択をしてしまうんですよね。

今思えば休めば良かったのに休む勇気がないんです。

昔、学生時代にですね、バイト先の人手がなくて、人手のあるバイト先なんて知りませんけどね。

自分が休んだら他の人がどう困るかわかるから、どんなに具合が悪くても休まずに行きました。

休むことができなかったんですよね。

休んだら、誰かにこう思われるとかも沢山考えますし。

でも今考えれば休めば良かったんです。

誰かが休んで手が足りなくなるのは、バイト先の会社の問題だからだと教えてもらったことがあるし、それこそアドラーのいう他人の課題なんですよね。

他人の課題を自分がどうにかしようとするから自分が壊れてしまうんですよね。

 


でもそんな辛い経験も無駄ではなくて、自分の苦手なことを知ってないと、これから生きやすい選択もできないのでね、失敗を「生きやすさ」に繋がっていけばOKなわけなのでね、今では働いてる人に仕事が休みやすいか聞いて「休みやすい会社」を選ぶようになりました。

休みたくても休めない私を変えることができなかったのでね。

医者やカウンセラーからは、変えられないことは工夫をしましょうと、言われているし、本にも書いてあるのでね。

まだまだ自分に都合の良いように生きています。

 


「親のことを思って」っていうのも選ばなくていいんです。

親の気持ちも機嫌も親の課題で、子どもが親の言うことを聞くか聞かないか子どもの課題であり子どもの自由ですからね。

それで干渉されても怒られても、親の機嫌は親の課題です。

誰に置き換えてもそうです。

上司とか先生とか束縛気味な恋人や友達とかね、誰でもです。

 


相手の課題と自分の課題の話はアドラーだけが言っているわけではなくて、心理学の色んな本にも書いてあるし、子ども向けの海外の絵本にも書いてあることなんですけどね。

 


話を戻しまして、戦争のない現代には生きる生きない以外にも「自分が選ぶ」という自由を実は持ってるんですよね。

それを忘れてしまうと、まるで他人に動かされてる人生に感じてしまうんですよね。

だから、私はつまらなく感じたり、

人のせいにしてしまったり、

足りないものに対して不満を感じたり、

いつのまにか「やらされてる感」で仕方なくやってしまうんですよ。

だからかな、だんだん心がどす黒くなってくというか、ひねくれてくるんですよね。

はぁ、、可愛くないなって。

本質では、全部全部、私が選んでるのに。

そんなにつまらないことも、不満も、やらされてると思うことも私が意味付けしている。

つまらないとか、不満だとか、やらされてるとか名前をつけてるのは私であるということ。

私が決めていることを、もうちょっと思い出して、私が決めていることにもうちょっと責任をもって、もうちょっと自分の機嫌を自分でとれるようになりたいなと思う一日でした。

 


悩みや辛いことに序列はないですけどね。

無いものを数えがちだけど、映画を観て、「自分にはこんなにある」ということを思い出した時の涙も忘れたくないです。

 

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