陰キャがミキティになれるわけない

 

今回のお話は、

些細なことが大きなストレスに感じる私が、陽キャにあこがれて、どうやったら陽キャになれるか考え抜いたお話です。

 


ミキティって、自分の意見をはっきり堂々と発言したり、よく笑って明るくてすごく可愛いんですよ。

私もこうなりたいと思った。

ミキティをみて、こんなに危ない発言をハキハキと言って良いんだ。そこに好感を持つ人もたくさんいるんだ、言っていいんだ、という良い発見もあった。

だから良い部分は真似したい。

取り入れやすいところに取り入れるのは良いこと。

 


一方でわたしが今読んでる本は『「HSP」で「ひきこもり」だけど私は元気です。』という本。

 


私は鈍感さと繊細さをフィフティフィフティで持ってると思ってるから、HSPですって言うのはおこがましい。

よく会う人が、髪を染めたり切ったり、具合が悪いか、気がつかないことが多い。

人がして欲しいこともわからない。

相手の立場から気持ちを想像することも得意ではない。

だけど、人の機嫌によって自分が左右されたり、暗いニュースで何週間とショックを受けたり、自分よりも人がどう思うか、想像下手な癖に気にしすぎる、失敗しないようにすごく気をつけたり、失敗っていっても忘れ物程度、最悪の事態を考えて備えすぎたり、音とか光とかの環境とか、ちょっとしたことがちょっとしたことじゃない大きなストレスを感じて暮らしています。

 


ミキティの豪快さと、自分の繊細さの両方に関心があって、両方に取り入れたいものがあって、相反する矛盾してる気持ちになります。

陽気でハッキリ強気で行ってしまえ!っていう気持ちと、繊細さの大切さの両方を欲しがってる状態。

ほんと欲張り。

 


隠キャが陽キャになりたい。

なったら生きやすくなるかも。

だけど繊細な気持ちに嘘をつかずに自分を守ることで生きやすく感じる気持ちもわかる。

 


どっちにしよう。

どっちも欲しいから、どっちもバランスよく取り入れる方法はあるかなぁ、って考え中です。

本来なら、私が私以外のものになろうとすることは不自然で無理があることというのは当然のこと。

自分がありたい自分。

よりよくなりたい自分。

背伸びしすぎても苦しいだけだから。

別にやらされるわけじゃない。

こうなった方がいいよって言われて、言われた通りにした方がいいのかなって思って変わることは凄く苦しいことで、私もやりたくないし、他の誰かがそんな状況にあったらやめて欲しい。

苦しいだけ。

自分がそうしたい、あるいは、そうありたくない、って気持ちが何より大切だから。

 


で今回私は、隠キャが陽キャになりたがってるからややこしい。

でも隠キャ隠キャって言ってるAdoさんも大好き!!

同じ隠キャでも私自身の隠キャが好きかと言われたら、全く別問題。

もうウジウジしたくない。

 


だからとりあえず、友達とか家族とか、たとえハ?って思われてもいい人、そういうのびのび発言を言えそうな関係性があるところから、自分の中のハッキリした意見とか怖がらずに言っていこうと思う。

たぶん言ってる。

もっと、自己肯定感とか意識して言ってみたい。

私はこうなの。あの人は文句を言うけど、私はそんなの知ったこっちゃないのよ、っていうハッキリした価値観に持っていきたい。

陰口だけじゃなくて、自分が自分でいることに堂々としたい。

自分が自分で決めることに、罪悪感を持ちたくない。

わたしがこうって決めたら、あの人は悲しむかな?とか。

でも私は他人の人生を生きてるわけじゃないから。

他人の意思は聞いてわかった。

でも他人が私を操作できるのは、そこまでだから。

考えを私に伝えるところまで。

その先どうするかは、私の自由。

そこの線引きを示してるのがアドラーの心理学だから、これは他人の課題かな?自分の課題かな?って考えながら、過ごしたい。

もっと思い切って過ごしたい。

そう言う自分になりたいから。

誰かの思いをくんで、自分が自分の意思を隠して遠慮して生きるのことは、望んでない。

そういう私にとっていらない繊細さを手放したい。っていう本心が今回見え隠れしてるのかな?って思う。

 


今読んでる本、『「HSP」で「ひきこもり」だけど私は元気です。』

かほり著・武田友紀(たけだゆき)監修・解説の本を読んでみて、心に残った部分があって、

 


"繊細さんは繊細さを大切にすることでどんどん元気になる。"

磁石のS極同士、N極同士はくっくないみたいに、私にもそんな離れたい感覚があって、それが人であったり、もちかけられた仕事であったり、娯楽であっても、嫌なものは生理的に離れようとしてる。

その感覚をないがしろにしちゃいけないなって思うようになった。

 


嫌でもやることが、協調性。

嫌でもやることが、努力。

全部全部には当てはまらない。

つまり全部に努力が必要なわけじゃない。

全部に協調性が必要なわけじゃない。

その線引きが私には難しいから悩んだり、結局引き受けたり、断れないことはいまだに多い。

 


断れなかった時、断れば良かったって思ったら、次はこう言おうって、自分の最善の答えをそのとき考えればいい。

断れなかったことを後悔するんだけど、これからにちょっとずつ、一滴ずついかせれば、後悔を生かせるから。

強い後悔がないと変われない自分っているから。

後悔を完全なる悪者にしない。

小さい後悔はするもの。と考えて。

そんときは悔しい。

私自身もだけど、私の周りにも繊細で押しに圧倒されて断れない人がいる。

ガソリンスタンドで、あワイパー傷んでますねって言われたり、熱心に説明されたら、傷んでるのに私はワイパーを変えません!って言いずらいから結局ワイパーを変えてもらい、別のことに使うつもりでとっておいたお金を支払う。

雪でエンカルが車の下につくとサビなどの原因になるから、ちょっと泥のハネをシャンプーより安い水洗車で洗おうとガソスタに立ち寄ったら、下部洗浄もした方がいいですよ、ともう断ろうか迷うすきもなく、下部洗浄のボタンを押されてしまった。

それを1週間たとうが、辛かった、自分のN極同士を無理矢理くっつけられるかのような心の摩擦がたぶん傷ついた。

そしてまた断れなかった自分も嫌だった。

そういう気持ちがずっと晴れないのも凄くわかる。

それをウジウジするな!とか、もう思ったことだからいいじゃん!とか、「そんなこと」って、「そんなこと」っていわれたら凄く悲しい。

そういう気持ちも凄くわかる。

ウジウジするなって言われるだろう、思われるだろう、だって本当にそうだからって気持ちがあるのもすごくわかる。

だから、自分の思いをある程度自由に発言できる人にしか言えない、話せない。

話してもわかってもらえない。

共感してもらえない。

共感を求めることにさえ、罪悪感を感じることもあるんだけど、そこで共感してもらって、なんか心があったかく安心して、嫌な事実が変わらずとも、前を向ける。

自分1人で、被害をうけたんだけど、1人じゃない、仲間がいるっていう勇気が湧くっていうのは重要だと思います。

次はこう言ってみようかな、って自分の中で前向きな考えに変われるっていうことはあると思います。

わかってもらえなくてもいいから否定しない人の存在はとても大きい。

 

 

 

繊細さんにとって、繊細さんに寄り添ってもらって勇気づけられること、元気づけられることもあれば、陽キャミキティみたいにハッキリくっきり結論!!っていうのを笑顔の明るさでハッキリ言ってもらって、隠キャな自分がハッ!と目を覚ますかのような力強い答えにスカッとすることもあると思った。

5年間悩んでることがあって、同じ悩みをミキティに相談してる相談者がいて、ミキティの回答が、できるかできないかじゃなくて、やるんだよ!!っていう、やるんだよ!!って言った後に一つも濁さない。

笑って笑い話にしない。

その目力。まっすぐな意思。ハッキリとした決意。

それがそのまま、私の真正面からバンとぶつかってきて、それがなんか不快じゃなくて拒絶でもなくて、爽快だった。

よくぞ言ってくれました。

だから場合によっては陽キャに救われる。

そうやって答えを求めるひとを悩みによって選んだらいい。

キャラを変えるのは難しいけど、キャラに良い影響を受けて、自分の中で答えが見つかって、前に進むっていうのが大切だと思った。

 


本にはこうも書いてありました。

"繊細な感性で、毎日の小さな「いいこと」にもよく気づき、深く味わえるのです。"

ストレスもあるけど、心地よいこともたくさん味わいましょう。

それが特権だと思って。

それではおやすみなさい。