やんわりした言葉選びもウソも下手

ASD私あるある

 

少し前に、幼稚園から親御さん向けのイベントのお便りが渡された。

 

私はその日空いてるけど、1人でいたいので参加申し込みをしなかった。

 

ある日ある親御さんから「ねぇねぇ。今度、行く?」と声をかけられ、何のことだ?と焦りフリーズしたあと、この人と関連することは親御さん向けのイベントしかないという考えに到達した。

フリーズしている時間が長いことも気まずく、話のテンポを早く取り戻したいのもあり、つい即答していた。

「あ!行きません!」

 

相手はフフッと場を和ごますように笑い、「あ、行けない?」と言い直してくれた。

用事はないんだけど、、と思いつつでも正直に用事はないが1人でいたいというのも可笑しいだろう。と考え、「あぁ、、」と目線を逸らし「はい」と、いかにもごまかした返事をしてしまった。

 

そして、その出来事から何時間も経ってから気がつく。

「ねぇねぇ。今度行く?」と声をかけてくれたのは、そのイベントを企画してくれた役員の方だ。

企画している人に対して、あまりにもはっきり「行きません」と言ったことに気がついた。

やんわりと気の利いた言葉選びが下手すぎる私。またやってしまったと思った。

だから相手は、困ったようにフフッと笑って「行けない?」と言い直してくれたんだ。

このように咄嗟に出てくる言葉によく悩ませれる。

 

だから私は直接話すよりも、LINEのようにゆっくり文章を考えて何度も読み直してから発信するコミュニケーションの方が失敗を減らせるので好きです。

3月8日の日記 「自分で選ぶ」ことは生きる力になる。新年度への不安。

3月8日の日記

「自分と人を比べてはいけない」という言葉に縛られる

新年度への不安。

「選べる」という自由。

 


人と比べて凹んだから、比べてしまったことへの罪悪感。

人と比べて安心したから、比べてしまったことへの罪悪感。

未来は「自分が選べる」という自由を思い出す。「自分が選ぶ」ことが生きる力になる。

という話をします。

 

 

 

 


戦時中の物語「この世界の片隅に」のDVDを観ました。

そこで思いの外ショックなシーンがあって、私が今暮らしている世界の平穏さを思い知らされました。

そこで、こんなに平穏なのだから、それだけでどれほど幸せなのかという有り難さとともに、戦争のない時代を生きていて本当に良かったと安堵したことに、なんだか罪悪感を覚えました。

 


昔と今を比べて、今の方が安全で恵まれているから安心してしまったからです。

「人と比べてはいけない」という概念が私の中でザワザワとしてしまった日でした。

あれもこれもあるのに、何で私はこんなに不満なんだろう。不幸な気分がしてしまうんだろう。

そんな怒りも自分の中に湧き上がりました。

 


昨日も人と比べていました。

この前の動画で4ケタの数字を覚えられなくて失敗をする話をしました。

昨日、市役所の人が私に難しい説明をしながら、パソコンに十数

文字の数字を滞りなく打ち込んでいました。

それでスムーズに事務処理が進んでいくので、数字が間違ってたら進まないんですよ。

だから間違ってもないし、そんなの当たり前のように十数文字の数字を打ち込んだ後、もう一度チェックすることもありません。

打ちながら画面を見るわけでもなく、自分への信頼の厚さに憧れてしまいました。

私は心の中で、す、すげぇ…と自分との格差を思い知り、市役所の人から受けた説明すら十分に聞き取れていませんでした。

そして、私の暗証番号4文字を何度も私が打ち込む作業があったので、何度も「暗証番号お願いします」と言われました。

その度に私は暗証番号を記載した紙を見ながら打ち込みました。なんでこの4ケタにしたのかも覚えていなくて、だから余計記憶できません。

この格差、恥ずかしいけど、仕方ありません。

「人と自分を比べてはいけない」というよく聞く教えが私を縛ってきます。

人と比べて、劣等感が刺激されますが、事実は事実として受け止めたつもりです。

 


比べるといううえでその日は映画でも比べることをしていました。

映画の話に戻って、ほとんどはほのぼのした映画だと思って安心して観ていました。

 


戦時中の映画なので、覚悟のうえで見るべきでしたが、映画の後半の方でショックを受けてしまいました。

涙が溢れました。

戦時中のショックなお話も含まれるので、苦手な方はご視聴を控えてください。

 


私は戦争の悲惨さを知りたいよりかは、ヒューマンドラマが好きなので観てみました。

食糧や物など限られた環境で、主人公はどのように幸せを見出して生活していたのだろうということが知りたかったんですよね。

確かに、ほのぼのとしていて健気に前向きに暮らしていました。

だけど、空爆によって一瞬にして、自分が今手を繋いでいた大切な人が消え去ってしまいました。

繋いでいた自分の右手も一緒に。

 


大切な人とともに自分の右腕を失ったのは主人公です。

主人公は、もしもあのとき私がこうしていれば、という思いが溢れて止まらなくなります。

自分が右を歩いていれば、

隠れる場所があれば、

もっと早く逃げていれば、

主人公は一瞬の出来事によって、変えられない過去や悔いを一生背負って生きていくのか…と思いました。

そんな思いまでしても戦争には負けて。

 


子どもの隣でお母さんが力尽き、ハエがたかってきてお母さんは亡くなります。

それでも子どもはお母さんを探し求めます。

お母さんみたいに右腕を失った女性を見つけます。

灰色に汚れた子ども。

お腹が空いているはずなのに、配給でもらった一つのおにぎりをお母さんに似た女性に差し出します。

女性に、ええよ、食べ、と言われます。

子どもは、おにぎりを食べ、女性の頬についていた一粒のご飯もつまんで食べました。

そして女性に抱きつきます。

その女性は主人公なんですけどね。

幼い子を残して亡くなったお母さん。

自分より先に幼い子を亡くしたお母さん。

 


たくさんの人が家族を失い、日々、自分の大切な人を探し歩いています。

他人に「〇〇さん?〇〇さんでしょう?」

と呼び止められる。

「違います」と答えたりとか。

 


消え去ってしまった子は、春から小学生に上がるはずだったのかな?

友達ができるか、心配していました。

 


私も先を案じて不安になることは沢山ありました。

春が来るのが怖かった。

桜が咲くのが怖くてたまらない学生時代がありました。

 


新学期や新年度が始まる前に自殺者が増える現実など、色んなことが頭を巡りました。

 


悩みや苦しみに優劣はありません。

本人が辛ければそれが真実だと思いますし。

 


新学期を迎えられずに意図せず亡くなってしまった人。

新学期を迎えたくなくて亡くなってしまった人。

 


後者は、選ぶことができるんだと気がつきました。

生きる生きないに限らず、結婚の時期も結婚相手も、仕事や学校や将来に向かって進むか、諦めて目標を変えるか、頑張るか休むか。

選べることは、戦争のない今の日本の財産の一つだと思います。

 


例えばお金持ちになることを選ぶのは難しいですけどね。

お金ならもっと根本の、何にお金を使うかとか、どこを努力して節約するか、とか選べるんですよね。

 


いや、選ぶことなんてできない、と私はずっと思ってました。

「選ぶことはできないから、やるしかない」「やらなきゃ誰誰にこう言われる、こう思われる」とか色んな不安とかプライドがあって「選ぶことはできない、選択肢はない」って思ってたんですけど、それも私が選択してるんですよね。

選ぶことはしないと決めている。

選択肢はないと決めている。

 


「やるしかない」ってことを選んでる。

「休まない」ってことを選んでる。

「誰かにこう思われたくない」ってことを選んでるんですよね。

「今、転職してる場合じゃない」ってことを選んでる。

「人と接したくない」ってことを選んでる。

「自分は、変われない」ってことを選んでる。

アドラー心理学の言葉は厳しかったです。

人が変われないのは、変わりたくないという目的があることを説いていて、変わらない自分の方が都合が良いからということを言ってるんですね。

厳しい〜と思ったけど、ぐうの音も出ませんでした。

変わるということは、今まで自分を肯定してきたものを否定しなくてはいけないから苦しいんですよね。

 


「休むわけにはいかない」

「辞めるわけにはいかない」

「諦めるわけにはいかない」

そう思って頑張ってきた自分を見直して、

いや、休もう。辞めよう。諦めよう。

ってギアチェンジすることが「変わる」とか「選ぶ」ことだとしたら、180°くらい変わることなので、相当苦しいわけです。

「変わる」より「工夫しよう」って話もアドバイスでよく聞く言葉なのでね、どうしても変われないことは変わらないか、やらないか工夫するという手がありますね。

 


私がギアチェンジができないときは、変わることもできない、頑張るのも、休むのもできなくなって、「もう人生終わりにするしかない」っていう思考に脳がバグを起こしてくるんですよね。

疲れ切って。

もともと白黒思考で間を考えるのが苦手なんですけどね。

それで命を落としてしまったら本末転倒なんですよ。

誰かのためにじゃなくて、自分のために生きることが生きる力に直結すると思うので。

 


しのうとか思うのは脳のバグですからね。

本人がおかしいのではなく脳がおかしくなるほど疲れているので従ってはいけないんですよね、本当は。

 


で話を戻しますが、戦争のない現代には「選べる」ことが沢山あります。

病気や障害をもたないことは選べませんけどね、どんな自分であっても、こんな自分が今日1日どんな選択をするか選べるんです。

 


でも私は休みたくても休めないんですよね。

「休まない」っていう選択をしてしまうんですよね。

今思えば休めば良かったのに休む勇気がないんです。

昔、学生時代にですね、バイト先の人手がなくて、人手のあるバイト先なんて知りませんけどね。

自分が休んだら他の人がどう困るかわかるから、どんなに具合が悪くても休まずに行きました。

休むことができなかったんですよね。

休んだら、誰かにこう思われるとかも沢山考えますし。

でも今考えれば休めば良かったんです。

誰かが休んで手が足りなくなるのは、バイト先の会社の問題だからだと教えてもらったことがあるし、それこそアドラーのいう他人の課題なんですよね。

他人の課題を自分がどうにかしようとするから自分が壊れてしまうんですよね。

 


でもそんな辛い経験も無駄ではなくて、自分の苦手なことを知ってないと、これから生きやすい選択もできないのでね、失敗を「生きやすさ」に繋がっていけばOKなわけなのでね、今では働いてる人に仕事が休みやすいか聞いて「休みやすい会社」を選ぶようになりました。

休みたくても休めない私を変えることができなかったのでね。

医者やカウンセラーからは、変えられないことは工夫をしましょうと、言われているし、本にも書いてあるのでね。

まだまだ自分に都合の良いように生きています。

 


「親のことを思って」っていうのも選ばなくていいんです。

親の気持ちも機嫌も親の課題で、子どもが親の言うことを聞くか聞かないか子どもの課題であり子どもの自由ですからね。

それで干渉されても怒られても、親の機嫌は親の課題です。

誰に置き換えてもそうです。

上司とか先生とか束縛気味な恋人や友達とかね、誰でもです。

 


相手の課題と自分の課題の話はアドラーだけが言っているわけではなくて、心理学の色んな本にも書いてあるし、子ども向けの海外の絵本にも書いてあることなんですけどね。

 


話を戻しまして、戦争のない現代には生きる生きない以外にも「自分が選ぶ」という自由を実は持ってるんですよね。

それを忘れてしまうと、まるで他人に動かされてる人生に感じてしまうんですよね。

だから、私はつまらなく感じたり、

人のせいにしてしまったり、

足りないものに対して不満を感じたり、

いつのまにか「やらされてる感」で仕方なくやってしまうんですよ。

だからかな、だんだん心がどす黒くなってくというか、ひねくれてくるんですよね。

はぁ、、可愛くないなって。

本質では、全部全部、私が選んでるのに。

そんなにつまらないことも、不満も、やらされてると思うことも私が意味付けしている。

つまらないとか、不満だとか、やらされてるとか名前をつけてるのは私であるということ。

私が決めていることを、もうちょっと思い出して、私が決めていることにもうちょっと責任をもって、もうちょっと自分の機嫌を自分でとれるようになりたいなと思う一日でした。

 


悩みや辛いことに序列はないですけどね。

無いものを数えがちだけど、映画を観て、「自分にはこんなにある」ということを思い出した時の涙も忘れたくないです。

 

#この世界の片隅に

#人と自分を比べてはいけない

#新年度への不安

鳥好きによる鳥三昧の3月3日の日記

 

 


昼間に銭湯に入って、日暮に家に帰って、夜DVDを観たら、鳥三昧で嬉しかった日の日記です。記してないけど。喋ってるけど。

 


私は結構鳥が好きです。

顔立ち、特に瞳、シルエット、動き、貫禄などに神聖さを感じるから。

 


川などにシラサギがいたら私がそこを通り過ぎるまでずっと観察します。

トンビが空を飛んでいるところも、カッコよくてたまりません。

トンビやタカが意外と地面から近い電線や電柱の上に停まっているところに出会うととてもラッキーに感じます。

ここぞとばかりに観察します。

 


今日はたまたま銭湯に来ました。

午後、明るいうちに入りました。

熱いお湯なので、露天風呂で冷たい空気に当たりながら入るくらいがちょうどいい銭湯です。

 


露天風呂といって想像するほどのおしゃれさはありません。

浴場は暑くて露天風呂の扉を開けた途端、危険なほど寒い強風が吹きます。

そこは5階だからか、うそだろと笑ってしまうほど風が強いです。

 


それで何が良いかというと、目線のすぐ近くでトンビが3羽くらい立派な羽を広げて飛んでいる姿を観察できます。

トンビをずっと見ることができるし、熱いお風呂と冷たい風が気持ちよくて、私は気分が良いです。

 


ちなみな露天風呂には鳥が入らないように横シマにワイヤーが張ってあります。

 


日が暮れるころ車で家に着きました。

帰ってきたら、お風呂も済んでいるなんて、最高に清々しいです。

老後は毎日このように過ごしたいです。

 


車の中から見える玄関の前で、ハトでもスズメでもカラスでもない、名前の知らないまぁまぁ大きな鳥が枝に止まってピーピー鳴いていました。

車でそっと様子を見ていると、その鳥が玄関の窓の横にあるキンモクセイの木の中に入って行ったところを初めて見ました。

 


実は、去年から夜になるとキンモクセイの木の中に鳥がいる事に気がついていました。

夜に車から降りてキモンクセイの横を通るといきなりバタバタバタバタ!!!といって鳥が出てきて飛んでいくことが2〜3回あったからです。

 


心臓止まるかと思いますよ。

でも私は鳥が好きなので、動物全般好きですが、共存できるならしたいと思っています。

だから日が暮れてからキンモクセイの横を通る時は、鳥さんがいるかもしれないから、なるべく大きな音は立てないように、サッと通り過ぎるように留意して過ごしていました。

 


でもあれから一度もバタバタバタバタ!!!と音を立てることがないまま4ヶ月ほどたっていたので、もしかしたらもういないかな、と思っていました。

 


私には思い当たる節があったからです。

クリスマスの季節に、キンモクセイにささやかなイルミネーションをつけたことがあったからです。

 


なんて迷惑な人間なんでしょう。

そう思いながらも、暖色でボヤ〜と光っては変えるイルミネーションに何年も憧れていました。

そしてこの冬にニトリで見つけて、しかもソーラーで暗くなったら自分で光って、数時間後に消えるというものだったので、こんなの欲しかったと思い購入しました。

 


でも、鳥さんが眩しいと思って、9時頃手動でイルミネーションを手動で消してみたりもしました。

 


でもそもそも光る木に鳥さんは帰ってこないだろうな。いないだろうな、と思っていました。

私だったら自分の寝室にイルミネーション飾られたら眠れないし。

 


イルミネーションを片付たらまた来るなかな?そう思いながらクリスマスの片付けをしました。

 


それからもバタバタバタバタ!!と飛び立つことは無いし、実は私はキンモクセイの近くの窓のすぐ近くで夜寝ています。

 


布団でゴロゴロしてるときも、一度も鳥の気配は感じません。

コロナ禍でしっかり換気してた頃、鳥さんの事も考えずに、外にキンモクセイがある窓を急にガラガラ!と開けても、物音一つしません。

急にバタン!と締めてから、あ。鳥いたらビックリするだろうな。

鳥にとって、すぐ背後にある窓が急にスライドしたらビックリするよな。

でも普段は忘れているので容赦なく窓をガラガラ開けて、急にバタンと毎日締めていたし、だからと言って飛び立つ音もしなかったので、もはやいないと思ってた。

 


でも、いたんだ。

物音を立てても、意味もわからず木にイルミネーションを巻かれても、ずっといたのか、また戻ってきてくれたのか、わからないけど、近くで見ることのできないほど警戒心の強い鳥が、

こうやって毎日日が暮れると帰ってきて、私のすぐそばで一緒に寝ているんだと思うと愛おしくなりました。

 


そして、ピーピーと鳴く姿を初めて見て、いつもあの子が来ていたんだ…正体を知るというか、なんという鳥かも分からないから、正体を見ることができて感激でした。

 


そして、家でディズニーピクサーの映画「アーロと少年」を初めて観ました。

ディズニーピクサーの物語は大好きなので、期待大でした。

好きな割に、アーロと少年という映画が出ていることも知りませんでしたけどね。

 


そこに出てきた鳥、なんだと思いますか?

トリケラトプスのような見た目で、15本以上もの角がついた恐竜が出てきます。

全く怖そうではなくて、足が短くて頭でっかちでずんぐりむっくりした穏やかで優しそうな恐竜です。

名前は「ペット・コレクター」

どの辺に鳥要素があるのかというと、そのたくさんの角に色とりどりの鳥がたくさんとまっているんです。

鳥以外にも、なんだろう?カピバラに似た小動物もとまっているんですけどね。

ペットコレクターという名前のその恐竜は、この世は恐ろしいから仲間が必要だと言います。

私は鳥という仲間がたくさんとまったその恐竜の姿がとても気に入りました。

説得力もありますしね。

強そうな恐竜が、か弱い鳥たちを大切に飼い慣らすというか守っている姿のギャップも良いですし、強いもの弱いものという垣根を超えて、仲間意識をもって暮らしいているのも平和で健気で大好きですね。

 


キャラ設定が私のツボにハマる感じで、さすがディズニーピクサーだな、と思いました。

ディズニーピクサーの映画で初めにツボにはまったキャラクターは、トイストーリーのバズライトイヤーでした。

 


いやでもね、ユニバーサルスタジオの映画、シングのキャラクター達も大大大好物なので、ディズニーピクサーに限った話ではないですけどね。

 


今日は、銭湯で、玄関先で、映画で、予想外に鳥たちとの出会いが重なって満たされた1日となりました。

 

 

 

#鳥

#アーロと少年

 

4ケタの数字の記憶があいまい。

 

マクドナ◯ドでの失敗を病院の呼び出しで生かしました。

病院で覚えたルーティンは美容院で脳内バグを起こしました。

 

 

 

マクドナルドで注文したときも、病院で呼ばれる番号も4ケタでなかなか記憶できない。

人は平均8ケタくらい覚えられると聞いたことがあって、びっくりした!!

発達障害の検査で4ケタの記憶で限界でした。

それを反対から言うとか、少ない順に並べ替えて言うっていうテストで間違ったかもしれない。

それくらい私は4ケタまでの記憶が私のキャパシティなんだと思った。

 


いつもドライブスルーのマクドナルドですが、この日は数年ぶりに一人で店内で食べることにしました。

楽しみでずっとワクワクしてました。

注文する品物は、私のお気に入りのスパビーのセットで飲み物はファンタグレープと決まってます。

だから、スムーズに注文できると思ってました。

前にいたマダムは、ポイントでマクドナルドを購入しようとしたらしいのですが、店員に会員登録をしないと利用できない旨を伝えられると、じゃぁポイント使えないの?なんだぁ〜。

会員登録って自分でしないといけないの?

そりゃわからないよ。と店員は責められているかのような感じになっていました。

ポイント使えないのね?なんだぁ〜。

露骨にガッカリしていて、店員の気持ちを考えると「色々な人への接客にモヤっとしながらも失礼なくこなし、次々にくる注文、商品の提供、会計など大忙しの業務もこなし、お店を回すので大変そうだなぁ」とちょっと重い気持ちになりました。

私もこういうおばさんになるのかな。

なるかもしれないから、今のうちに反面教師しようといつも思います。

もう私のようにおばさんになってしまえば、若い方の方がずっとずっとマナーがよく、お手本になります。

常識もマナーも時代と共に変わるものなので、私には読めない空気というものを若い方の動きを見て学んでいます。

 


そしてその上その店内には、店に響き渡る声で従業員にビシバシ指示を出す女性店員もいて、私まで緊張してさっきから色々な気持ちに圧倒されて、注意がそれていました。

私も注文が終わって、商品を受け取る列に2番目に待っていると、そのビシバシ女性店員に私の番号4ケタを呼ばれました。

私の4ケタより一文字違う気がしました。

ガッカリしていたマダムより前から商品受け取りカウンターで待ってる男性がいたので、まず私から呼ばれるなんて思いもしなかったので油断していました。

ビシバシ女性店員が4ケタを言っても男性はピクリともしません。

え?!私?!

番号4ケタ違う気がするけど、レシートはいつもの癖でお釣りと一緒にお財布にしまってしまいました。

4桁の番号見せないと受け取れないルールかな?

そう思って慌ててお財布からレシートを取り出そうとしますが、その間にも店内に響き渡る声で目の前の女性店員が「◯◯◯◯番のお客様?!(こちとら忙しいんですけど!)」と言わんばかりに聞こえてしまいます。

まずい!また油断してしまった!

レシート出さなきゃ!

よく考えれば今までマクドナルドで4ケタを確認されたことは無いのに、スーパーのセルフレジでバーコードにテープで印を貼ってもらう時は、必ずレシートの提示を求められたのでその記憶と混ざっていました。

とても焦っている時にすんなりレシートは出てこず、何番のお客様!と呼ばれていれば焦りで一か八か商品を受け取りに歩き出していました。

スパビーの包装かよくわからないけど、ジュースの紙コップはなんとなく紫色に透けているし、もう私と言うことにしよう!と受け取りました。

もたついて恥ずかしやら申し訳ないやら、頭を下げたまま受け取り、ハラハラしたまま、2階へ逃げるように上がって行きました。

 


そして目指していた私的に特等席にちゃっかり座ります。

 


このようにほとんど毎日、些細なでハラハラしたり、失敗をした気持ちになって、そのシーンが反芻してしまいます。

そのまま席について、遠い目をしていた。

もう自分の4ケタを見ても、店員が読み上げた番号は覚えていないので、私のスパビーかわからないけど、たぶん私のだから食べることにしました。

 


揚げたてのポテト。優雅でフリーな一人時間。私にはマクドナルドで充分優雅です。

ずっと楽しみにしてたのに、こんな気持ちで席に着くなんて。

些細なことで反芻が止まらない自分も情けなくなります。

そんなこと気にしてない、情けなくはないというふりをしながら、まだ胸の鼓動が落ち着く前にポテトを口に運ぶけど、冷静に味わえてないな、と俯瞰してくる自分にまた恥ずかしくなりました。

 


この小心者!

この自意識過剰!

 


色々自分につっこみながら、あのときどうしたら良かったんだろう。

次は何に気をつけたら良いんだろう。

 


2階の席の大きな窓に向かって座るカウンター席で、すごく良い天気で景色を見下ろして楽しんでるはずが、頭の中はいつのまにかついさっきの反省会です。

 


とりあえずイヤホンをして、YouTubeを見ながらポテトをつまみ、いつのまにか、鼻でフッと笑っている私に気がつきました。

 


いや、笑い堪えられてない、一人で笑ってるよ私と思いながら、いつのまにか、ひと席飛ばして隣にお客さんもいて、一人で笑ってるよあの女って、勝手に隣のお客さんに吹き出しを作ってしまう私でした。

 


マック美味しかったし、YouTubeちょっと楽しかったし、さっき凹んだし、たぶん哀愁を漂わせているであろう私は帰ろうとしました。

 


1階からポテトがあがった音がします。

ティロリ、ティロリスと流れています。

久しぶりに聞いたな。

 


店内の有線では、Adoさんの「踊」が流れ始めました。

すると、半端ならKO〜とティロリのリズムがぴったり合ってしまいました。

 


その頃私はゴミ箱の前で、お盆のゴミの分別に戸惑いながら、こっちはプラスチック、こっちは燃えるゴミ燃えるゴミこれも燃えるゴミと捨てて、最後にお盆の上の一枚の紙を燃えるゴミに捨てて、最初から全部紙にのせて一度にゴソっと捨てたら良かったじゃん!と、いつもの要領の悪さを実感しているところに、踊のリズムとポテト上がりのリズムが合わさってしまって、こんなことあるのかと思いながら、席で相方と楽しそうに話すお客さんたちの中で、このリズムのまさかのコンビに気がついてる人は私以外にどのくらいいるだろうか?と思いながら、階段を降りました。

 


踊とポテトあがりのリズムに私の足まで合うと恥ずかしいので、リズムを外しながら降りました。

だんだん踊とポテトあがりのテンポがずれてきたので、なんだか安心しながら店を出ました。

 


後日、病院の呼び出し待ちで、マクドナ◯ドでの待ちで学んだことを活かそうとしました。

 


常に手元で番号の紙は見ています。

トータル30回くらいは手元の番号を見ますが、4文字の数字の記憶は自信がありません。

私の番号と1文字以外の人が呼ばれました。

「○○○○番の方、6番窓口へお越しください」私と1文字違いだ、間違えていなくてよかった。

私かな?と思った瞬間に立ち上がった男性がいたから私じゃないと気がついた。

じゃぁ次かな?とか考えてる間にも「〜番窓口までお越しください。☆*×%の方、6番窓口までお越し下さい。」と言われていることに気がついて、気がついた時には、今何番って言った?と思って、完全に聞き逃しました。

 


でも、マクドナ◯ドの時の私はもういない。

今度こそ、私は動こう。と思いました。

番号が間違っていても、手元に番号を用意して相手にも見せて「聞き逃してしまった」と言おう。

手元に用意した番号をみつつ、前にいた男性がいなくなっているのも見て、もしかしてよびました?っていう雰囲気を出しながら、何もかも斜めに、顔も体も歩き方も手元の紙も、イメージではそんな感じで近づいていって、わざとじゃないんだけど、自然にそうなっちゃって、すごくキモいじゃんって感じなんだけど、窓口で私の番号を差し出しながら、なるべくハキハキと「すみません、番号聞き逃してしまって…」と言ったら、瞬時に私の番号を見て笑顔で案内してくれたので、ホッとしました。

 


待つといううえで、マクドナ◯ドでの少しの失敗が病院で慌てたときに生かされました。

 


しかしながら、病院で待つという経験で、美容院で少しの失敗をしたこともあります。

 


たまに出かける用事なんて、たまの病院ばかりの私が美容院へ行くとどうなるかと言うと、診察のあと会計が出るまでソファで待つように、髪を切り終えたあとすぐにレジへ行かずにレジの前のソファで呼ばれるのを気長に待っていました。

 


待っているのはレジにいる美容師さんの方ですよ。

でも私は会計を待つ間マスクをつけたりしてたので、店員さんも、私が支度をしているだろうから待とう思ったのか、コミュ障女がソファでゆっくりしている謎が解けないから、どうすべきか考えていたのか、店員さんのたぶん配慮で私をチラチラ見ることをせず気長に待ってくれていました。

 


店の奥から出てきた別の美容師さんが、ソファにじっと座る私とレジにじっと立つ美容師さんの謎の間に、明らかに体が固まり、え?どう言うこと?っていう顔をしていました。

 


私と目が合いますが、私は会計に呼ばれてないのでどうするべきか読めません。

 


店の奥の店員は、ど、ど、ど、どうぞ?!って感じで両手をレジへ向けて私に合図してくれました。

 


え?!

すぐ会計なの?!とびっくりしながら、やっとこれまでの美容院のことを思い返しました。

そういえばあの時もこの時も、自分のアウターとバッグを受け取ったら会計だった!

そして、ここは病院ではない!!ってことに気がついて、またまた、恥ずかしやら申し訳ないやら、でもお礼を言って逃げるように帰りました。

 


普通にできるって難しいことだと思います。

こんな自分で外出するのは時々嫌になります。

明日も頑張ります。

おやすみなさい。

 

#発達障害

#短期記憶が苦手

 

アダルトチルドレンが昔の私と親へ|答えはあなたしか持っていない

1,まず、家族同士の距離が近すぎ!

近かったら傷つくし、傷つけちゃう。

心が離れてたら良いってことじゃなくて、物理的に視界にいるだけで近すぎ。

見たくない態度や空気が見えちゃう。

あるいは見られちゃう。

 


2,結局みんな一人。

家族がいても、子供がいても、友達がいても、自分の人生を代わりに生きてくれる人がいるわけないんだから。

みんな一人なんです。

一人で立って、自分の意思でがんばって歩いたり、頑張れなくなってやめたりしてる。

 


元気がなくなっても、結局また時間が立てば歩き出せる。1ヶ月後とか、数ヶ月後とか、数年後とか。

元気が出たと思ったらまた元気がなくなって、50点まで出来てた日々が20点くらいになっちゃって、でもまたどうせ元気になる。

 

 

 

3,機能不全してない家族って珍しくない?

まず機能不全家族って、いろんな友達と話してても順調に機能してるほうが珍しい。

無いものねだりで、あの子はあの家はいいなって思うんだけど、私が持っててあの子に無いものも同じようにあるんだよね、実は。

いや無いわ。

うちにアーモンドチョコレートなんて無いのに、あの子のうちは毎日のようにある。

一粒貰ったら、絶対噛まないで舐めてアーモンドも気が済むまで舐めから噛み締めた。

香ばしいアーモンド。

ひもじい。

ひもじいけど今思えば、そういうありがたみとか美味しい…っていう強い感情や味わいが、今後小さな幸せを見つけることを得意にしたと思う。

機能不全家族だから不幸ってこともない。

機能してる家族が幸せかどうかは体験したことないからわからないんだけど。

アーモンドチョコレートがあったあの子も、あれもこれも恵まれてて、何が不自由か私にわからなくても、思春期もめちゃめちゃリア充で可愛い女の子やかっこいい男の子に囲まれて、いつも楽しそうで、ついでに私はその子からいじめられてて、でその子は荒れていって社会人になってからも、当時はホームページというものを個人が持ってて、こっそり見てたけど幸せそうじゃなかった。

機能してる家族だったら、闇を抱えないとは限らない。

 


私は35歳か36歳かわからないんだけど、今とりあえずアダルトチルドレンとして振り回されては、あんまりない。

親子にしては不自然なところはたくさんある。不思議がられるときもいつもある。

友達が羨ましいときもある。

でも、それよりも「自分がどう生きたいか」叶えるにも限界はあるけど、自分がいたい場所に行こうとしたり、耳を塞ぎたいことは塞いだり、見たく無いものは見ない、とか限界はあるけどそうしているうちに今は親にあんまりアンテナが向いてない。

今はね。

私なりにアダルトチルドレンや親への考えをまとめましたが、誰かに当てはまる訳じゃないと思う。

こうしたらいいじゃんって思いは、みんなにとっては「いや、違うんだよな。」「それができないから困ってる」「そうしたら別の問題が起きる」って思うものだと思うので、私のたった一例として聞いてください。

だって、だれだって答えは自分の中にしかないから。自分しか持ってないから。

私が自分で見つけた答えを話します。

私の中で見つけた現在の思いを子供の頃の私や、親に対して私のエゴで語っていきます。

 


18歳くらいかな?

あなたはアダルトチルドレンです。

機能不全家族」の中で生きてます。と主治医に言われました。

機能不全家族と聞いて、機能が果たせてない家族って、大変な家庭なんだ…私ってなんかすごく可哀想なんじゃないか?…みたいな、この言葉通り重く捉えていました。

 


機能って経済的に衣食住を保って生活したり、介護育児看病とかケアしたり、家系の後継ぎをしたり、たくさんの機能を家族というチームが果たすものらしいんですけど、そんなん果たしきれるわけないじゃん。

まず。

オール5の成績の人が当たり前じゃないように。

で、オール5のパーフェクトヒューマンじゃなくても恋愛をして結婚をして子どもをもうけるのが自然。

例えば市役所から、コミュ障ラジオ様

あなたは家族を築ける立場にない。

あなたはこれらの理由で家族を築くには困難と判断いたしました。

それは誰かを傷つける恐れがあるため。

万が一事故が起きた場合、あなたに責任能力はないと判断いたしました。

って、市役所から通知とか来ないし、来たら不自然だし、シンプルに悲しい。

勝手に未来の可能性を無くされたら。

 


機能不全家族と呼ばれた私の家。

完璧じゃないけど、ほんとは大好きなお父さんお母さんにこんな通知が届いてほしかったか?っていったらそんな事ない。

 


私は主には、物心ついたときから母のカウセンセラーの状態でした。

あと、私の発達も凸凹で不得意なことが多かったからだと思う。よく怒られてた。

で、不自然な親子関係の謎が解けない。

心の傷が痛い。

正体不明の母のことが怖い。

愛されていると思えない。

たくさんの謎が未消化のまま、18〜20代にはこう思うようになりました。

私は母のことは魔女で私のことは悪魔だと本気で思ってました。

でも15年くらい経った現在私の感覚では正直あんまり気にしてない。

他にも色々、何で?どうして?何を考えてるの?っていうもつれた糸みたいのがたくさんあるんだけど、今あんまり気にしてない。というか重要じゃ無い。

なんでかって言うと、母と離れたことで関係が良くなったから。

母も子育てが落ち着いて、ゆとりを取り戻したと思うし。

母の良いところは去るもの追わず。

追ってこないから、物理的に離れられる。

鬼電もかけてこない。鬼電って今言う?

去れば終われないから、駆け引きしたい年頃には、やっぱ私なんていなくても困らないんだ…とか思ってましたけど。

今ではそれが母の良いところ。

私が自分でいられるために母に追われないことは必要なことでした。

悪かった親子関係は、取り戻せる!

だって、どうしても親子は無条件で愛し合ってるからしぬほど苦しむし、嫌なくらい腐れ縁だし、その心の底の底の方にある、お母さんが好き、お母さんに愛されたら嬉しい、お母さんを信じてる、その気持ちまで消える訳ないんです。

親子がちょっとゆとりを取り戻して、適切な距離感にはなれて落ち着いたとき、やり直せるって知りました。

心から嫌いです。心から憎んでます。って人もいると思います。それは否定しません。

みんなアダルトチルドレンでも違う傷を負ってると思うから。

みんな同じようで同じじゃ無いですよね。

私、お母さんがしんだとき泣けないかも?って思っては、なぜかよく泣いてました。

母は、親戚付き合いに、子育てに仕事に、子供の受験や兄弟の不登校、自分は歳を重ねていって親の介護の問題や、自分の病気や、更年期という7重8重の苦労の中、私にまで仏のように微笑めるわけないじゃん。

今思えば。

更年期一つとっても、神経伝達物質というのかな?ホルモンというのかな、あいつの仕業は本当に唯一ひとを操ることができる、あらがえないものだと思う。

神経伝達物質にあらがえるわけもなく、うつ病にもなるくらい人を変えてしまうから。

生き延びるだけで精一杯じゃん。

よく生きててくれたなって、それだけで丸儲けじゃん、今なら思うけど当時はそこまで私が気がつけるわけないんだよね。

昔からやってきて慣れてる事ばかりじゃなくて、一個乗り越えては新しい課題がやってきて、終わりが見えなくて、そんな状態で子どもに仏のように微笑めるわけないじゃん。

自分に優しくできない状態で人に優しくできるわけないから。

自分が好きで結婚して子ども産んだんじゃん、は無し。

それは無し。

目標持って、選んだ進路、選んだ会社に「こんなところだと思わなかった。こんなはずじゃなかった」って思うのは、大人も同じだと思う。

だって、未来の自分を知ってる人なんていないから。

理想と現実のギャップというのはいつもあって、でも自分が選んだから、どうしようかな。

自分は思ってたよりダメダメだけど責任持って頑張るのか、自分が壊れてしまうから、ごめんなさいと謝って退くのかかな。

また過去に戻ることは誰だってできないからね。

で、親子も偶然じゃなくて、出会うべくして出会うから、仕方ない。

いつも見るのは「原因」じゃなくて「目的」。

しかも、子どもが例えば、私のことをお父さんお母さんが幸せにしてくれるんでしょうね?っていう期待というかおごりもお門違い。

自分を幸せにしてくれるのは自分だから。

親も、子どもに原因を探ったり、あの時こうしからダメだったのよとかいつまでもなじらない。

子どもの目的は何かな?って観察したり、そのために自分にできることを考えたら良いと思う。

弱いところがあるもの同士、どうやって生きていきたいかな、ってこれからの目的を探るしかないって思った。

で、子どもが親から離れたければ、親は引き止めない。

子どもの人生は親の人生じゃないから支配や操作するのは違う。

 


で、なんでずっと親子関係に不全さを感じてきたかというと、

体調が悪くても、お腹が痛いとか恥ずかしくて言えなかった。

皮膚がパックリ割れて、血がポタポタと垂れてグッタリするような怪我をしても、セロテープで貼っておけば治せないかまず考えた。

怪我したら怒られると思った。

あと、なんか心配かけるのが悪いし恥ずかしかったし、なにより困らせると思った。

とにかく私が煩わせることをしないでおきたかった。

だからとにかく困ってることを言えなかった。

その理由は正直わからない。

初めての月経がきてもしばらく言えなかった。

言おう言おうと思って勇気振り絞って言ったけど、人生最大に恥ずかしかったから思い出したく無い。罰ゲーム並み。

生理用品も買ってきてって言えなかった。

十代〜20代、悩みも、ちょっとしたグチや文句も、笑い話も、話せなくなってた。

なんで他人のように遠慮してしまうんだろう?なんで他のみんなみたいに甘えられないんだろう。

家族なのに。お母さんなのに。

でも、話せるひとは他にもいる。

もしも彼氏ができれてその人に心を開けば甘えることもできる。

それでいい。

私は不幸じゃない。

お母さんだけが私の全てじゃない。

そう思って目を背けてみるけど、友達がお母さんとする気さくな話し。

友達がお母さんにされるささやかなケア。

羨ましくて、私も甘えてみたかったって、心の中で泣き出す私がいて、それを抑えてみても目に涙を溜めて溢れないようにすることが多かったように思う。

そして遅い反抗期が25歳で来た。

反抗期かもう限界だったのかわからない。

初めてご飯が食べられなくなった。

飲み物だけ飲める。

痩せたいとか全く思わなくて、私の美意識では痩せ過ぎは美しいと思わないから、痩せるのが怖かった。

休日だったから、口コミの良い大きな病院の当番医に言って、経口栄養食をたくさん貰おうと思いました。

はじめて会った外来の先生。

ご飯が食べられないとだけ伝えただけなのに、昔お母さんと何かありましたか?と聞かれた。

いやまぁ、はい。なぞに照れながら答えた。

くらいに答えたら、あなたは赤ちゃんからやり直そうとしてますね。って言われた途端泣いてしまいました。

精神科でもないのに、泣くなんて、看護師さんも想定外みたいな顔しててすごい気まずかった。

体は私の心理も全部わかってくれてるんだ、お見通しなんだみたいななんか泣いてしまいました。

赤ちゃんはおっぱいは飲めるけどはじめ固形は食べられないでしょって言ってました。

 


ここからは今の私から昔の私や親に向けて話します。

その当時は辛い。毎日寝ても覚めても何十年も。

いずれは大丈夫だよって、いずれの話をこれからしたってほぼ意味はないと思う。

今が辛いんだから、今どうにかしたいから、今助けてほしいもんね。

なのに、もういずれの話ししか出来ない自分が不甲斐ないんだけど、昔の私に言いたい。

 


辛いままだと思うけど、30歳くらいが寿命ならもう残念だけど可哀想だったねで終わっちゃう。

30歳まで頑張ったら十分だから人生終了しようと思った。

それくらい生きるエネルギーって限界があるもんね。

でもね、今人生強制終了したいと思わない。

じさつすると、何万回も生まれて寿命まで生きて積まれてた徳がチャラになるって、何人かの人に聞いたから。学会ではそんな話は無い。

そんなのやだ。人間に生まれるってかなり得を積んでるからなれたけど、また何万回もアリやダニやカエルに生まれて、出かけようとしたら何かに踏まれてしんで、そんなのめんどくさい。

 


で、人付き合いが5年10年スパンで変わってくると、友達と話す内容も変わってきたし、

目にする場面も変わる。

視野が広がるというか、見てるものが変わる。

心が向いてるものが変わってくる。

 


で、いつのまにか自分の中の、子どもでお母さんに甘えたい気持ちと、大人でお母さん以外のものに向く気持ちの割合が変わってくる。

お母さん以外のものに向く気持ちの割合が多くなってくる。

 


でいつのまにか、友達や別の大人と支え合って生きてるんだって気持ちになってた。

別に生活を共にする訳じゃ無いですよ。

別に、めったに友達と会ったり遊んだりしない。

たまーにLINEをする。

LINEして返ってこなくても、普通。

心踊るようなハッキリした友情、愛情に感じなくても、なんか気がついたら、みんな色んな悩みの中で頑張ってるんだろうな。

今日も憂鬱だけどとりあえず歩いてるんだな。あの人あの子も。しかも、みんな1人で。

 

 

 

どんなに、家族とか、会社の仲間とか、友達とか、子供とかいたとしても、結局みんな1人で自分の足で立って歩いてる。

自分の今日やることを誰が全て肩代わりしてやってくれるわけない。

みんな自分の役割を持って個人プレーをしながら家族とか仕事というチームワークで何かを成し遂げる。

生活を続ける。

 


自分の意思でがんばったり、あるいは潰れてしまったり、でまたエネルギーがちょっと溜まっては歩き出したり。

そうやって起きたり転んだりするが自然なのかな。みたいな感覚が備わってきた。

そう思い込もうとしなくても、そんな感じなんだ、っていうか感覚ができてきたら、もう自分はアダルトチルドレンなんだ、とか意識する必要がなくなったというか思い出さなくなった。

 

 

 

そもそも完璧とまで言わなくても、大人らしい大人って、見たことない。残念ながら。

この人、あれもこれも出来て、ほんとに凄いな。って人はいる。

私にはここまでできないわって。

この人に出来ないことなんてないんじゃないかな?人間付き合いとかも、あらゆることが順調なんだろうなとか思っても、深く付き合えば、大人げないところがある。私と3〜40歳くらい上の人なのに。

あの人もこの人も。

なんだ、みんな偏りがあるんだ。

みんなって言っていいかわからないけど、私の周りでは「みんな」だった。

みんな変わってるところがある。

ややこしいところがある。

サイコパスなのか?と思うくらい驚きの一面を見せるときもあって、時に怖くなる。

でもずっと付き合ってれば、その謎の一面くらい持ってるだろう誰でも。私にも。

そして人は誰のことも完全に理解できるものじゃないし、自分を完全に理解する人もいないし。

なにか正体不明の謎を人は持ってる。

でも、それが「変わってる」んじゃなくて、変わってることが「普通」なのだと何となく思ってきた。

変わってるって思うのは他人がそう思うだけで、本人にとっては普通ですよ、きっと。

なにか悪気があってやってるわけじゃなくて、隠しているわけでもなくて、それがありのままの姿だったりする。

 


で、家族同士の距離は近すぎって私は昔も今も思う。

距離感で人間関係は良くも悪くも変わったから。

人と人の距離が近すぎたら、もう人のアラが見えまくり。

喧嘩になったり、喧嘩すらややこしいからモヤモヤしどおし。

 


離れたら見えない。

別にそばで見なくて良い。

離れたから、大切な人じゃないって意味にはならないから。

離れられたら苦労しないんだろうけどね、そもそも。

離れることでお互いがもっと冷静になって、相手を思い合えるようになって、素直な言葉を言えるようになったりして。

 


別に感謝とか愛情の言葉を言葉にできなくても、感謝とか愛情があるから出てくる言葉が言えると思う。

 


私が離れたいと思う距離は最大、別々に暮らすこと。

別々に暮らせないなら、誰かの家に泊まりに行くこと。

それもできないなら、日中とか夜、家出すること。

それもできないなら、同じ屋根の下でも、個室で数十分〜1時間でも、一人になること。

それもできないなら、両耳にイヤホンをつけて爆音で聴きたい音楽とかトークを聴く。

それもできないというか、それでもダメなら、それもできない、それでもダメだから、モヤモヤモヤモヤしたりイライラしたり、喧嘩できる相手なら喧嘩になっちゃう。

 


もしかしたら、親もそうだったのかもしれない。

親も年齢だけ大人でも、大人になっても新しいステージは次々にやってくるから、そのステージでは素人だったりして、でも親だからしっかりしなきゃって適応しようとするんだけど、思うように行かない。

理論的な考えに、感情がぶつかって、理論がはちゃめちゃになっちゃうから。

家って、休むところでありたいけど、ONとOFFが入り混じるところだから、疲れてるのに気を遣ったり。

機嫌が悪いけど、怒るのを我慢したり。

されど家だから。

家だから、自分の正体むき出しなのに、論理的に考えようと務めても、あるとき理性が崩壊しちゃう。

子どもも親もそうなのかな。

どっちも完璧じゃないから。

・だから親は子どもに威張らないこと!

威張らないことについて後で話しますね。

子どももね、弱さを見せて、嫌だったら泣きじゃくってください。

そんなにできないよ!

もう頑張れないよ!

お母さんのことは大切だけど、ここまでしか背負えない。助けになれない。ごめんだけど。

って言って良いんだよね、ほんとは。

お母さん泣くかもしれない。悲しむのがわかる。

だから言いにくいんですよね。

でも、お母さんがいてくれるだけでいいから。とかフォローがあればいい。

お互い、頑張りたいのに頑張れないから苦しくなる。

だから、もういてくれるだけでいいから。

人の価値は、行為じゃなくて存在に価値があるっていうのはアドラーも言ってた。

で、第三者に言う。

家族以外の誰に言っても、数多く言わないとアタリが出ないときがある。

先生に言ったけど無駄だった。

医者に言ったけどダメだったら。

保健センターに言ったけど無駄だった。

そうなの!

残念ながら当たり外れがあるの。

何してるんだ大人!って感じなんだけど、

頼りにならない大人がいるから。

そう、大人げないというか、真摯でない人がいるんですよね。

ネットでたくさん相談電話番号調べて、片っ端から電話してください。

私が言えることじゃ無いです。ごめんなさい。

そうしたら良かったんだろうなって思います。

大人がこんなに大人げないって、大人になって知った。

私も大人げないしね。

やっとの思いで一人二人に相談してダメだったら、誰に聞いてもダメなんだ、って自分で可能性をたっちゃうから、もっと真摯な大人を探せばよかったんだよね。

そこまで考えられなくて、自分で可能性をたって自分よがりになっていたなって思う。

でも、頑張るにもエネルギーには限界がありますもんね。

あぁ、もうダメだ…ってなっちゃうよね。

 


で、親は子どもに威張らないこと!

強く正しくいなきゃって思うんだろうけどね。

子どもに勝とうとしない。

立派でいようとしない。

自分も弱いのって素直に言ったら良いのに。

でも貴方も弱くて良いのよって言ってあげたらいいです。

お母さん、こんなことが苦手でね、とかこうされると悲しくてね、とか取り扱い説明みたいなこと伝えて、命令はだめだけど、私はこうでねってアイメッセージで伝えて、

お母さん、出来ないこともあるけど、できることは頑張るからね。

あなたのこと大切だから頑張りたいの。

でも疲れたりすると、ずっとは優しくできないんだ。

喧嘩しても、あなたのことは大切だから。

つまらない喧嘩でお互い嫌な気持ちになっちゃったね。

喧嘩は本当はつまらないことなの。

本当はお母さんは、あなたが今日も健康で事故がないだけで、それだけで本当は嬉しいの。

幸せなの。

いてくれるだけで、本当はいいの。

 


そんなふうに、大人だろうが子どもだろうが等身大で認め合えたらいいのになと思います。

まだ人生4割くらいしか生きてないので、当然まだ悟りをひらけたわけじゃなくて答え探しの途中です。

親と離れてずっとは逃げ切れないと思ってるし。

 


18歳頃から精神科に通い出したときのことを話します。

 


1ヶ所目の精神科の先生は女性でよく話を聞いてカウンセリングやアドバイスをしてくれましたがら私は、話を聞いて欲しいわけでもアドバイスが欲しいわけでもありませんでした。

そして、体調はどんどん悪くなっていきました。

このままでは次の診察まで生きていられないと思って病院を変えました。

 


私にアダルトチルドレンといった先生は、2箇所目の精神科でした。

淡白で、話も詳しくは聞かない、どうですか?そうですか、お薬継続で出しておきますね。

そんな先生だったけど、アダルトチルドレンの説明とともに、A4サイズの書籍のコピーをくれました。そこには

"あなたの人生はあなたのもの。

あなたの人生はお母さんのものじゃない。

あなたは、お母さんのために生きなくていい。"

と書いてありました。

 


この言葉がずっと心に残っています。

そんなふうに思っちゃいけないと思ってた。

でも、思っていいんだ。

そういうものなんだ、と私と母を良い意味で切り離すことができたきっかけになりました。

私は、お母さんのために生きなくていい。という小さな芽が心の中に芽生えた瞬間でした。

 


今日のお話はここまでです。

おやすみなさい。

 

陰キャがミキティになれるわけない

 

今回のお話は、

些細なことが大きなストレスに感じる私が、陽キャにあこがれて、どうやったら陽キャになれるか考え抜いたお話です。

 


ミキティって、自分の意見をはっきり堂々と発言したり、よく笑って明るくてすごく可愛いんですよ。

私もこうなりたいと思った。

ミキティをみて、こんなに危ない発言をハキハキと言って良いんだ。そこに好感を持つ人もたくさんいるんだ、言っていいんだ、という良い発見もあった。

だから良い部分は真似したい。

取り入れやすいところに取り入れるのは良いこと。

 


一方でわたしが今読んでる本は『「HSP」で「ひきこもり」だけど私は元気です。』という本。

 


私は鈍感さと繊細さをフィフティフィフティで持ってると思ってるから、HSPですって言うのはおこがましい。

よく会う人が、髪を染めたり切ったり、具合が悪いか、気がつかないことが多い。

人がして欲しいこともわからない。

相手の立場から気持ちを想像することも得意ではない。

だけど、人の機嫌によって自分が左右されたり、暗いニュースで何週間とショックを受けたり、自分よりも人がどう思うか、想像下手な癖に気にしすぎる、失敗しないようにすごく気をつけたり、失敗っていっても忘れ物程度、最悪の事態を考えて備えすぎたり、音とか光とかの環境とか、ちょっとしたことがちょっとしたことじゃない大きなストレスを感じて暮らしています。

 


ミキティの豪快さと、自分の繊細さの両方に関心があって、両方に取り入れたいものがあって、相反する矛盾してる気持ちになります。

陽気でハッキリ強気で行ってしまえ!っていう気持ちと、繊細さの大切さの両方を欲しがってる状態。

ほんと欲張り。

 


隠キャが陽キャになりたい。

なったら生きやすくなるかも。

だけど繊細な気持ちに嘘をつかずに自分を守ることで生きやすく感じる気持ちもわかる。

 


どっちにしよう。

どっちも欲しいから、どっちもバランスよく取り入れる方法はあるかなぁ、って考え中です。

本来なら、私が私以外のものになろうとすることは不自然で無理があることというのは当然のこと。

自分がありたい自分。

よりよくなりたい自分。

背伸びしすぎても苦しいだけだから。

別にやらされるわけじゃない。

こうなった方がいいよって言われて、言われた通りにした方がいいのかなって思って変わることは凄く苦しいことで、私もやりたくないし、他の誰かがそんな状況にあったらやめて欲しい。

苦しいだけ。

自分がそうしたい、あるいは、そうありたくない、って気持ちが何より大切だから。

 


で今回私は、隠キャが陽キャになりたがってるからややこしい。

でも隠キャ隠キャって言ってるAdoさんも大好き!!

同じ隠キャでも私自身の隠キャが好きかと言われたら、全く別問題。

もうウジウジしたくない。

 


だからとりあえず、友達とか家族とか、たとえハ?って思われてもいい人、そういうのびのび発言を言えそうな関係性があるところから、自分の中のハッキリした意見とか怖がらずに言っていこうと思う。

たぶん言ってる。

もっと、自己肯定感とか意識して言ってみたい。

私はこうなの。あの人は文句を言うけど、私はそんなの知ったこっちゃないのよ、っていうハッキリした価値観に持っていきたい。

陰口だけじゃなくて、自分が自分でいることに堂々としたい。

自分が自分で決めることに、罪悪感を持ちたくない。

わたしがこうって決めたら、あの人は悲しむかな?とか。

でも私は他人の人生を生きてるわけじゃないから。

他人の意思は聞いてわかった。

でも他人が私を操作できるのは、そこまでだから。

考えを私に伝えるところまで。

その先どうするかは、私の自由。

そこの線引きを示してるのがアドラーの心理学だから、これは他人の課題かな?自分の課題かな?って考えながら、過ごしたい。

もっと思い切って過ごしたい。

そう言う自分になりたいから。

誰かの思いをくんで、自分が自分の意思を隠して遠慮して生きるのことは、望んでない。

そういう私にとっていらない繊細さを手放したい。っていう本心が今回見え隠れしてるのかな?って思う。

 


今読んでる本、『「HSP」で「ひきこもり」だけど私は元気です。』

かほり著・武田友紀(たけだゆき)監修・解説の本を読んでみて、心に残った部分があって、

 


"繊細さんは繊細さを大切にすることでどんどん元気になる。"

磁石のS極同士、N極同士はくっくないみたいに、私にもそんな離れたい感覚があって、それが人であったり、もちかけられた仕事であったり、娯楽であっても、嫌なものは生理的に離れようとしてる。

その感覚をないがしろにしちゃいけないなって思うようになった。

 


嫌でもやることが、協調性。

嫌でもやることが、努力。

全部全部には当てはまらない。

つまり全部に努力が必要なわけじゃない。

全部に協調性が必要なわけじゃない。

その線引きが私には難しいから悩んだり、結局引き受けたり、断れないことはいまだに多い。

 


断れなかった時、断れば良かったって思ったら、次はこう言おうって、自分の最善の答えをそのとき考えればいい。

断れなかったことを後悔するんだけど、これからにちょっとずつ、一滴ずついかせれば、後悔を生かせるから。

強い後悔がないと変われない自分っているから。

後悔を完全なる悪者にしない。

小さい後悔はするもの。と考えて。

そんときは悔しい。

私自身もだけど、私の周りにも繊細で押しに圧倒されて断れない人がいる。

ガソリンスタンドで、あワイパー傷んでますねって言われたり、熱心に説明されたら、傷んでるのに私はワイパーを変えません!って言いずらいから結局ワイパーを変えてもらい、別のことに使うつもりでとっておいたお金を支払う。

雪でエンカルが車の下につくとサビなどの原因になるから、ちょっと泥のハネをシャンプーより安い水洗車で洗おうとガソスタに立ち寄ったら、下部洗浄もした方がいいですよ、ともう断ろうか迷うすきもなく、下部洗浄のボタンを押されてしまった。

それを1週間たとうが、辛かった、自分のN極同士を無理矢理くっつけられるかのような心の摩擦がたぶん傷ついた。

そしてまた断れなかった自分も嫌だった。

そういう気持ちがずっと晴れないのも凄くわかる。

それをウジウジするな!とか、もう思ったことだからいいじゃん!とか、「そんなこと」って、「そんなこと」っていわれたら凄く悲しい。

そういう気持ちも凄くわかる。

ウジウジするなって言われるだろう、思われるだろう、だって本当にそうだからって気持ちがあるのもすごくわかる。

だから、自分の思いをある程度自由に発言できる人にしか言えない、話せない。

話してもわかってもらえない。

共感してもらえない。

共感を求めることにさえ、罪悪感を感じることもあるんだけど、そこで共感してもらって、なんか心があったかく安心して、嫌な事実が変わらずとも、前を向ける。

自分1人で、被害をうけたんだけど、1人じゃない、仲間がいるっていう勇気が湧くっていうのは重要だと思います。

次はこう言ってみようかな、って自分の中で前向きな考えに変われるっていうことはあると思います。

わかってもらえなくてもいいから否定しない人の存在はとても大きい。

 

 

 

繊細さんにとって、繊細さんに寄り添ってもらって勇気づけられること、元気づけられることもあれば、陽キャミキティみたいにハッキリくっきり結論!!っていうのを笑顔の明るさでハッキリ言ってもらって、隠キャな自分がハッ!と目を覚ますかのような力強い答えにスカッとすることもあると思った。

5年間悩んでることがあって、同じ悩みをミキティに相談してる相談者がいて、ミキティの回答が、できるかできないかじゃなくて、やるんだよ!!っていう、やるんだよ!!って言った後に一つも濁さない。

笑って笑い話にしない。

その目力。まっすぐな意思。ハッキリとした決意。

それがそのまま、私の真正面からバンとぶつかってきて、それがなんか不快じゃなくて拒絶でもなくて、爽快だった。

よくぞ言ってくれました。

だから場合によっては陽キャに救われる。

そうやって答えを求めるひとを悩みによって選んだらいい。

キャラを変えるのは難しいけど、キャラに良い影響を受けて、自分の中で答えが見つかって、前に進むっていうのが大切だと思った。

 


本にはこうも書いてありました。

"繊細な感性で、毎日の小さな「いいこと」にもよく気づき、深く味わえるのです。"

ストレスもあるけど、心地よいこともたくさん味わいましょう。

それが特権だと思って。

それではおやすみなさい。

 

感動しておいて理解できてない。金の国水の国|私の映画あるある

5年ぶりに映画館へ行った。

金の国水の国を観ました

私の映画館あるある

映画が感動で素晴らしかったことは言わずもながななので省きます

金の国水の国で、察したことと、察せなかったことを話します。

とにかく私は話を理解しずらい。

言葉を聞き逃すことが多い。

なにがどうなったか察しずらい。

感動したり素晴らしいと思えただけで私としてはよく映画を理解できてそれだけで満点なんですが、なんであのときこうなったんだ?

私席外してたわけじゃないのにあの間に何があったんだ?という疑問は盛りだくさんなわけで、そのあるあるを話します

いまだに風の谷のナウシカとか、もののけ姫とか、千と千尋の神隠しとか、何度見ても、なんか大事なことに気がついてないんですよ。

全部ジブリじゃ何だよな。

君の名は。とかも、たぶん核心みたいな部分に気が付けてない。

 


洞察力が乏しい・何でだ?考えろ…って考えてみんだけど、情報収集のアンテナが乏しすぎて、必要な情報量を得られてない。

注意散漫・ワーキングメモリーが低いことが顕著

何かを記憶しながら同時に様々なことを考える、さっきあぁ言ってたから今こうなったんだ。

さっきあぁなったから今こう言ってるんだ。

ここはこういう理由で、あえて嘘を言ってるんだ。

さっきはこうなったけど、実は真実は違ったんだ!とか、いうひらめきがしにくい。

実は違ったとかいう、ひねりがあると、混乱する。

 

 

 

話の流れ、つじつま聞き忘れる

注意散漫で始まって1:30、集中することを忘れて気がついたら思考停止してる、他のことを考えてる

あぁ、今日映画に来られて胸がいっぱいだなぁ。

ポップコーンの味、キャラメルじゃなくてチョコレートにしたら良かったかな。

そういえば店員さんへの私の態度、おかしくなかったかな。と回想したり。

集中しなきゃ!が心の中の合言葉

語りのテンポに乗り遅れる

次の話ししてるのに、前の話咀嚼しようとしてる間に話し進んでる

心の中で「え?今なんて言ったの?」

「え?なんであの人怒られてるの?」

席外してたの?って思う

むしろ席外してたことにしてほしい

あと映画の見どころ、秘密が明かされる瞬間に察せない

え?いま登場人物、何にハッとしたの?

ねぇ私、なんでピンと来ないの?今の大事なところだよたぶん!?って思う

超大事なところ。

A国の王女サーヤ

B国の青年ナランバヤルに心が惹かれていくが、

(この名前とか王女とかの立場もちろんネットで調べました)

妻がいると思い込んでいた。

でも妻に任命されていたのは本当は自分だったということに気がつく瞬間があった。

青年ナランバヤルも自分が王女サーヤの結婚相手だったとその時気がつく。

うろ覚えなんですけど、青年ナランバヤルが「言葉通り受け取ってしまいますよ」とか言ったのですが、言葉通りが受け取ったらどんな意味になるのか分からないまま平静を装って観ていました

 


王女サーヤが美女3人組から孤立しているんですが、最後までどんな関係なのかも分からなくて、後から人からあれは姉妹だと聞いて、どこで察したんだ?と思いました。

 


最後、世話人のバアヤが、国の偉そうな人に説教しているのも何故なのかわかりませんでした。

それも後から人に聞いて答え合わせみたいな事をして、思い上がった発言をしたからだと知る。

 


他にも、なぜ猫が隣の国の行ったはずのない飼い主の実家へ行って寝てたのか。

 


あとは、3つくらいの言葉で説明する場面の、言葉の3つとも知らない言葉で意味がわからない場面が良くありました。

「仕事のないギシのあしに嫁を世話してくださると」と、何?何言ってるの?察せない。

話を要約したセリフだと思うんですが、訳した話しの訳が分からない状態。

私、本当に大人?って思います。泣

 


最後まで登場人物の名前覚えられない

賀来賢人さんが声やってた人、としか表現できない

でもエンドロールで一つ気がつくのも私にしては成長した

情報を得ようとするアンテナが昔よりアンテナをはるようになった

2つの国の名前もどっちがどっちかわからない

水の国バイカ

金の国アルハミト

犬の名前ルクマン

猫の名前オドンチメグ

何?どれが国の名前?動物の名前?

 

 

 

察せない・聞き逃し・記憶しきれない

 

 

 

聞き取れない問題。聴覚情報処理障害APD

「仕事のないギシのあしに嫁を世話してくださると」

音は聞こえてるけど、言葉として聞こえない。

 


映画あるあるでした。

何回も見直さなきゃ分からないってよくあることだと思うんですけどね。

それにしても、察せないなと思います。

あぁ、でも全て察せないわけではなく、全て登場人物の気持ちが分からないわけでもなく、ちゃんと感動したんですよ。

王女サーヤは、ぽっちゃりしたキャラクターで、自分の容姿に自信がない。

なのにみんなが美女が嫁に来ると誤解というか期待をされて登場したら、みんな、え?ってなってしまった。

王女サーヤはその後涙を流すんです。

今日はなんだか私みっともなくて…って。

自分のコンプレックスをさらされたり恥をかくって言う体験は、感情移入しました。

それから、大切な人の対する悪い噂話。

噂話を持ちかけてきた人は、長年の仲なのにいまだにサーヤがオドオドしてしまうほど緊張する相手でした。

噂は嘘かもしれない。でも本当かもしれない。

でも大切な人だから、サーヤは勇気を振り絞って言います。

いくらなんでも、あの人はそんなことしません。

続いて、もう1人の大切な人のことを思って言います。

名前で呼んで欲しいと言います。失礼です、と。

緊張で両手をギュッと握って勇気を振り絞って言ったところにウルっときました。

大切な人のためなら、人はこんなに強くなれる。

弱くても、怖くても、弱さを超えて、恐怖をも超えられる。

その勇気に感動しました。

こんなふうに感情移入したり、登場人物の気持ちも少し想像することができるので、それでマルだと思います。

あとは、何事も復習が必要だな、と毎回思いました。

映画の話は終わりですが、ここから映画館の売店の話も少しします。

5年ぶりの映画館。

両方なんて一ミリも覚えていませんでした。

なので、予習が大切だと思いました。

なぜなら開館から、15分後に映画が始まるからでした。

いつものぶっつけ本番の私では到底着席に間に合いません。

メニュー選ぶのも優柔不断だし、やっぱこっちが良かったって思うと、ずっと悔しい。

諦めが悪いから、自分が不機嫌にならない対処でもあります。

なので予習が肝心だと思いました。

YouTubeで、映画館のチケットの買い方を観ました。

映画館のメニューを事前にチェックして、食べたいポップコーンの味と飲み物と料金をチェックして、挑みました。

いざ、売店の前へ。

予習のおかげでスムーズでしたが、私の地域の映画館には、私が頼もうとしていたアールグレイ味のポップコーンがありませんでした。

え!どうしよう。どうしよう。

チョコレートか、ストロベリーか、キャラメルか、、

チョコも好きだけど、いつもポップコーンじゃないチョコレートなら食べてるから好きだからチョコにしようか、いつも食べないからキャラメルにしようか凄い迷いました。

キャラメルにしました。

で、映画が始まる前に食べ始めて、やっぱチョコが良かったかなぁと、いやキャラメルで良かったんだと思おうとしたり、こんなウジウジするな!と別の自分が言ったりしながら、感情がうるさいまま映画が始まるわけでした。

 


まぁ、このような感じで、今までの色々な失敗や私のクセなどを考慮して、自分の能力の凸凹に対処しています。

対処しきれてないけど。

 


それではおやすみなさい。